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【お城探偵】千田嘉博 洗練された外枡形・黒井城 信長を超えた光秀

麓から見た黒井城の全景。三方に伸びる稜線上に砦などを配し、山全体を要塞化した
麓から見た黒井城の全景。三方に伸びる稜線上に砦などを配し、山全体を要塞化した
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 兵庫県丹波市にある黒井城は、標高356メートルの山頂にある。中心部の石垣や堀はよく残り、麓から歩いて本丸に立てば眺めも素晴らしい。この城は戦国期に赤井(荻野)直正の居城で、地域の政治と軍事の中心だった。直正は織田信長にいったん従う約束をしたが、織田方の武将を攻めるなどしたため、信長は1575(天正3)年に明智光秀に直正を討つよう命じた。

 丹波に攻め込んだ光秀は有利に戦いを進めたが、自らの軍に組み入れた地元武士が寝返ったため大敗。体勢を立て直した光秀は、1577(同5)年に再度丹波を攻めた。光秀の軍勢が迫る1578(同6)年に直正は病没。赤井氏は幼少の嫡男を一族が後見して黒井城に籠城したが敗れ、この落城で光秀の丹波平定は完了した。

 信長から丹波を与えられた光秀は、引き続き黒井城を地域の拠点城郭とし、重臣の斎藤利三を入れて城の改修を行った。現在見られる城のかたちは、このときに基本ができた可能性が高い。光秀が黒井城を改修できたのは、1578年から山崎の戦いで光秀が亡くなった1582(天正10)年までの4年間に限られた。そしてこの期間は信長の安土築城とほぼ重なっていたので、ふたりの城づくりを比較するには格好の事例である。

 信長の安土城は、天主を頂点とした階層的な空間設計、石垣の全面導入などとともに、主要な出入り口を外枡形(そとますがた)にしたことに特徴があった。

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