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秀吉が最晩年を過ごした伏見城の石積み階段が出土 有力大名屋敷の裏口階段か

伏見城跡
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 安土桃山期に豊臣秀吉と徳川家康が築いた伏見城の跡(京都市伏見区)から大規模な石積みの階段が出土し、京都市が緊急の調査を実施していたことが6日分かった。石に焼けた痕跡があることから、秀吉が最晩年を過ごし、関ケ原の戦いの前哨戦で焼失した木幡(こはた)伏見城の遺構とみられる。わずか2年あまりで焼失した“幻の城”。豊臣期の遺構はこれまで石垣の一部が見つかっているだけで、大規模な遺構が良好な保存状態で見つかったのは今回が初めて。

 この時期、伏見城は3回にわたって築城。秀吉が建てた指月(しげつ)城▽同城が地震で倒壊した後の慶長2(1597)年に秀吉が再建した初代木幡城▽関ケ原の戦いの前哨戦(1600年)で焼失後に家康が建てた2代目木幡城-で、徳川家光の3代将軍宣下(せんげ)が行われた後に廃城になった。

 昨年2月、住宅建設に伴う地盤改良工事のため業者が重機で斜面を掘削中に階段が出てきたことから、市は工事を一時中断。3日間にわたり調査した。

 市文化財保護課によると階段は東西7・5メートル、南北3メートルの範囲から出土。南北3メートル、東西2・7メートルの平地があり、そこから東に向かって8段の階段が確認された。

 階段は長さ0・8~1・4メートルの角柱石、平石などで構成。階段の両側面は、斜面状に石を積んだ壁になっており、南北両壁とも最大で4段分(高さ約2メートル)積み重なっていた。

 階段の周囲から赤く焼けた土や石が出土したことなどから、秀吉の死後、家康と対立を深めた石田三成が慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの直前、城を守る徳川方の鳥居元忠を攻めた際に焼失した初代木幡城のものと確認された。

 出土現場は、天守閣があったとされる現在の桃山御陵(明治天皇陵)の西側。江戸時代中期に描かれた絵図から、徳川秀忠の弟の松平下野守(しもつけのかみ)忠康(忠吉)や、家康の次男で後に秀吉の養子となった結城秀康ら秀吉に近い有力武将の屋敷が想定されるという。

 ただ、京都市にとって石積み階段の出土は予想外だったため、住宅建設の計画変更は難しく、遺構は保存できなかった。

 中井均滋賀県立大教授(日本考古学)は「城の中心部は桃山御陵、その周辺部は住宅地になっているため大規模な調査ができないなか、出土例が少ない初代木幡城の遺構が見つかった意義は大きい。それだけに保存できなかったのは残念だ」と話している。

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