【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝・第2部】(17)「家を持ったことがないのが政治家としての誇り」清貧の政治家が遺した無形の財産…
世耕弘一は昭和7年に衆議院総選挙で初当選して以来、8回の当選を果たし戦前、戦中、戦後の計23年7カ月にわたって衆議院議員を務めてきた。ただ、落選も7回と多く、あるとき三男の弘昭(後に近畿大学理事長)が軽口をたたいた。
「この星では、相撲取りだと、横綱にはなれませんよ」
弘一はおもむろに米16代大統領、エイブラハム・リンカーンの伝記を持ち出しきた。
〈××年-州議会議員落選、××年-州知事落選…〉
まさにリンカーンの歴史は落選、落選の連続。そのとき弘一は得意げにこう言い放った。
「かくして、彼は最後に、大統領の栄冠を獲得したのだ」
これは弘一らしいやせ我慢だったのかもしれない。
東京都豊島区東池袋の弘一宅に書生として住み込み、選挙運動も手伝った元近畿大学建学史料室長の當仲將宏(とうなか・まさひろ)は「先生は聴衆の反応を見ながら、その場にふさわしい話題を繰り出されていました」と振り返る。
その選挙は「世耕宗」と呼ばれるほど熱烈な支持者に支えられていたが、弘一は決して有権者に頭を下げないことで知られていた。落選すると支持者が謝りにきて、弘一は「どういうことだ」としかりつけたこともあったという。また、陳情に訪れた支持者に弘一は正論で説教して怒らせることも少なくなかった。
「これから選挙で応援はせんから」
こう言う支持者に弘一は即座に言い返す。
「一票もいらんわい」
そんなとき、その場を収めるのはいつも妻の紀久子だった。
當仲は「怒った支持者も奥さんが『すみません』と頭を下げると、不思議と機嫌を直して帰っていく。人々に敬愛されていた方でした」と懐かしむ。
今年1月末、弘一が長く住んだ東池袋の木造平屋建ての取り壊しが始まった。
「俺は一生、自分の家を持ったことがない。それが政治家の誇りだ」
こう語った弘一は、長男の政隆(後に近大総長・理事長、参議院議員)には借地に建った一軒家、弘昭には電話の加入権しか遺さなかった。一軒家は政隆が昭和50年代に買い取り、リフォームしながら使い続けてきたが、政隆の長女、森元つる子は「梁(はり)が傾くなどいよいよ限界になったので建て替えることになった」と言う。
弘昭の長男で、政治家としての志を継いだ経済産業相の弘成は語る。
「お金や家屋敷は遺さなかったかもしれませんが、和歌山ではいまだに祖父を大切に思ってくれている人も多く、政治家として基本的なところで無形の財産に助けられていると感じています」(松岡達郎)=敬称略、第2部おわり