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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝・第2部】(8)ドイツ語の論考をまとめてシベリア経由で帰国…日本大学講師

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世耕弘一氏の著書「獨逸語並に文體論」(近畿大学中央図書館所蔵)
世耕弘一氏の著書「獨逸語並に文體論」(近畿大学中央図書館所蔵)

 世耕弘一はドイツ留学でベルリン大学に行く以外はドイツ語研究に没頭し、ドイツ語に関する原稿を書き上げた。そして昭和2(1927)年に留学を終えて日本に帰ることになった。この原稿は帰国後の同年12月に「獨逸(ドイツ)語並に文體(ぶんたい)論」として刊行されている。

 弘一は後に書いた「ドイツ留学の憶(おも)い出」で「古い時代のドイツ語から近代に至るまでのドイツ語の歴史から説きおこした文法の本で、プリルー教授からいわれた、基礎をしっかりやれという教えに基づいて書いたものであった」と説明する。

 〈此(こ)の本は一ツは教科書用とし一ツは獨逸語學の研究の一助たらしめんとしたのである〉

 弘一が著書の「はしがき」に書いた言葉からも成果への自負が感じられる。

 帰国費用は、兄の世耕良一が用立てたとされる。ただ、弘一は、この金で古い時代のドイツ語の辞典や文法に関する数冊の本を買ってしまった。旅費が足りなくなったため、下宿の奥さんが不動産を担保にして金を借りて弘一に用立ててくれたことはすでに書いた。

 往路は船旅だったが、帰りはベルリンを発(た)ってからシベリア鉄道でロシアを通る15日ほどの旅路だったとみられている。

 〈ドイツ留學の途についた小林●(=金へんに奇)(かなえ)學監(がっかん)、及び世耕弘一氏は(中略)留學を終つてシベリヤ經由(けいゆ)本月歸朝(きちょう)した〉

 3月1日発行の日大の学術研究誌「日本法政新誌」に「二留學生(りゅうがくせい)の歸朝(きちょう)」という記事が見られる。このため往路と同じ日大の法文学部教授だった小林●(=金へんに奇)(後に衆議院議員)と一緒に2月中に帰国したとみられる。

 そして、4月1日の日大の資料では、弘一は「日本大學講師」と記載されている。大正12年から足かけ5年におよぶドイツでの留学を経て、弘一は晴れて日大から講師として迎えられたのだ。

 弘一の帰国に最も喜んだのは妻の紀久子だったことは想像にかたくない。

 新婚で長男の政隆(後に近畿大学総長・理事長、参議院議員)を出産したばかりで夫をドイツ留学に送り出した直後、関東大震災に被災した。東京に住むことができずに茨城の実家に身を寄せ、世話になっていた。

 弘一が出発するときには乳飲み子だった政隆はすでに物心がついており、後にこう振り返っている。

 「駅頭で、私がかすかに“おや、何処かのオジさんが来たのかな”と思ったのは、自分が生れて間もなくドイツに留学し、五年振りに帰国し髭(ひげ)を生やした父であった。キビキビしていて、大きな声で、おかしなアクセントをつけて喋(しゃべ)るので、怖(おそ)ろしかった」(松岡達郎)=敬称略

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