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【維新150年】大阪府警の“源流”に伝説の剣豪

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 慶応3(1867)年暮れ、薩長との決戦をめぐって、大坂城内で主戦論が多数派を占めるなかで、非戦論を主張したためだ。桃井は時勢の道理を説き、賊軍となる愚を諫めたが、強硬派からは「恩知らずの臆病者」とそしられ、命も狙われたことで自ら城を出る。尊皇と恭順を貫くことで幕府を否定したのだった。

 だが翌年1月、旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂城を放棄すると、市中は強盗や略奪が横行するなど無政府状態となった。そのとき、新政府軍が大坂の治安回復を託したのが桃井だった。当初、市中取り締まりは薩長芸の3藩が担当したが、桃井はこの藩兵を川崎東照宮(大阪市北区)の道場で調練し、それが後の浪花隊創設につながる。

 浪花隊は明治2年に600人を超える陣容に拡大。制服もラシャ服にマンテルズボン、洋靴というフランス風のスマートなスタイルに変わり、鼓笛隊を先頭に鉄砲をかかえて行進する姿に市民も喝采した。

 本部が置かれたのは初代府庁となった大坂西町奉行所跡、現在の「マイドームおおさか」(大阪市中央区)付近で、市内数カ所に屯所が設けられた。とくに最重要警戒区域とされたのが「川口居留地」(大阪市西区)で、神戸事件、堺事件を経験した新政府がいかに外国人警護に頭を痛めていたかがうかがえる。

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 近鉄富田林駅からバスで約20分。大阪府千早赤阪村の郷土資料館横に「楠公誕生地」の碑が立つ。明治8年、この地を訪れた大久保利通が史跡の保護と顕彰を堺県知事に要請。自ら碑文を書くはずだったが、3年後に暗殺され、代わって揮毫(きごう)したのが能筆家の桃井だった。

 浪花隊は軍警分離で新しい警察組織に再編されたため約2年で解散。桃井は請われて誉田(こんだ)八幡宮(同府羽曳野市)の祀官(しかん)=宮司、応神天皇陵=同=の陵掌(りょうしょう)=陵墓の管理人=となり、“誉田隠士(いんし)”と号して悠々自適の生活を送っていた。

 近所の子供に剣術や書を教える好々爺だったが、3人組の強盗を大和川に投げ込んだり、禁漁区の御陵で発砲した知事を一喝したりするなど、武勇伝に事欠かない。最後まで“位の桃井”だったのである。(今村義明)

     

 4代目桃井春蔵(もものい・しゅんぞう) 文政8(1825)年、沼津藩士の次男に生まれ、14歳で士学館に入門。17歳の時に3代目桃井春蔵の婿養子に入り、27歳で4代目春蔵を継ぐ。土佐の武市半平太(たけち・はんぺいた)、岡田以蔵(いぞう)のほか、後に「桃井四天王」とされる上田馬之助らが入門、一時は門弟千人を超えた。明治2年、北桃谷(大阪市中央区)に士学館を再興。18年、コレラのため60歳で死去。

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