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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝・第2部】(4)後ろ髪を引かれながらの船出…熱病に苦しんだ旅路

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伏見丸で写真に納まる世耕弘一氏(後列左から2人目)
伏見丸で写真に納まる世耕弘一氏(後列左から2人目)

 ドイツ留学に派遣された世耕弘一は大正12年9月2日、神戸港から「伏見丸」(1万930トン)に乗り込んだ。前日の関東大震災に見舞われた東京に残した家族の安否や母校の日本大学の被災状況などの情報もなく、後ろ髪を引かれる思いだった。

 「母校の震火の報に、上海に着港の時、接しましたので、このまま留学を中止して下船して先生のお膝元に駆けつけて何かのご用を勤めるべきか、または留学すべきかと色々と煩悶(はんもん)いたしました」

 弘一はベルリン到着後、震災後の火災で焼失した日大の学長になった山岡萬之助(後の総長)に宛てた手紙でこう書いている。

 書簡を学習院大法経図書センターで発見、解読した近畿大学名誉教授の荒木康彦によると、弘一は同じく日大からベルリン大学に派遣された法文学部教授の小林●(=金へんに奇)(かなえ)=後に衆議院議員=と同行し、伏見丸で同じ二等客室を利用している。弘一が小林の死後に書いた追悼文には2人が日本を離れてドイツのベルリンに着くまで45日間かかったと記されている。伏見丸を運航する日本郵船の当時の運賃表によると、神戸からフランス・マルセイユまでの2等の運賃は670円で、1等千円の3分の2程度だ。

 一方、「日本郵船株式會社一萬頓型汽船縦断面図」の船尾部分には弘一たちが利用した二等客室が4部屋あるのが確認できる。二段ベッドと椅子が置かれており、この4部屋のいずれかで弘一と小林が過ごしたとみられる。

 「コロンボで暑さにあたり熱病にかかったのも2人いっしょで、38度前後の体温。そして、地中海に入ると同時にケロリと平熱となって、元気で終着港マルセイユについたのであった」

 追悼文によると、二等客室は居住性は良くなかったとみられ、2人ともスリランカのコロンボ付近で熱病を患ったという。

 船がスエズ運河を抜け、地中海に入ったころには気候も良くなったせいか、2人の体調は回復している。日本郵船の欧州線定期表によると、伏見丸と同じ1万トン級の「諏訪丸」は神戸港から43日目でマルセイユに着く。伏見丸も同じペースで進んだとすると10月14日にマルセイユに入港したことになる。

 マルセイユ以降の陸上ルートは明らかになっていない。ただ、当時はマルセイユから鉄道でリヨン、ジュネーブ、バーゼルを経てドイツに入り、カールスルーエとフランクフルトを経由してベルリンに行くのが推奨ルートだった。

 荒木はこう指摘する。

 「マルセイユに10月14日に入港したとして、午前中に通関手続きを終え、急行に乗り込めば2日後の16日にベルリンに到着することができます」(松岡達郎)=敬称略

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