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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(1)反骨の政治家のぶれない信念の基礎となったドイツ留学

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若き日の世耕弘一氏(近畿大学所蔵)
若き日の世耕弘一氏(近畿大学所蔵)

 近畿大学の創設者、世耕弘一は大正12(1923)年から昭和2(1927)年にかけて、人力車を引きながら苦学して卒業した母校、日本大学からドイツ留学に派遣された。

 当時のドイツには1918年まで続いた第一次世界大戦で敗れた影響が色濃く残っていた。弘一が目の当たりにしたのは巨額の賠償金などが引き金となって経済が破壊され、ハイパーインフレーションに苦しむ市民生活の惨状だった。社会は混乱し、食糧や物資が不足。水道や電気の料金でさえ満足に払えない人たちも少なくなかった。

 この局面を劇的に転換したのが、弘一がベルリンに到着した直後の23年11月に発行されたレンテンマルクだ。不動産などの資産を基礎にして新紙幣を発行して1兆マルクと交換すると、奇跡的にインフレが収束した。この効果をつぶさに目撃したことで、弘一は政府による経済政策の重要性を認識したといえる。

 弘一は第二次世界大戦の敗戦後、内務政務次官として旧陸海軍の備蓄品が不正に隠匿された隠退蔵物資の摘発に取り組んだ際、モノ不足の解消とインフレを克服する効果に説得力を持たせるためこう訴えた。

 「私は第一次欧州大戦直後にドイツに行き、僅か二十四、五億円の金銀その他を供出することによってレンテンマルクという新札が発行され、あの恐ろしい天文学的数字と称されたドイツの大インフレが一夜のうちに片づいてしまったことは目の前で経験しているのである。もしわれわれが隠退蔵されたダイヤモンドにより、金銀塊により、そういうような手を打つことができれば日本のためにどれだけ幸福かわからない」

 また、ハイパーインフレが収束した時期からしばらくのワイマール共和国の相対的な安定期に滞在したことが、弘一のその後の人生を決定づけたといえる。

 弘一が史上最も民主的といわれたワイマール憲法の理念に触れたことで、生涯にわたって貫いた穏健な自由主義者としての背骨を形成した。同時に、ヒトラーによるファシズムの不気味な胎動が、民主主義の脅威となりつつあることに危機感を覚えたことも想像にかたくない。

 弘一は、ドイツ留学から帰国して間もなく衆議院総選挙に挑み、「国民を飢えさせない」「飢えにつながる悲惨な戦争は避ける」を原理原則に掲げる政治家となった。以降、戦争へと突き進んでいく軍部や翼賛政治体制に立ち向かい、露骨な選挙妨害などの迫害が身に及んでも信念を変えることはなかった。

 「倒れざる者」の第2部は弘一の穏健な自由主義者、反骨の政治家としての原点といえるドイツ留学から稿を始めたい。(松岡達郎)=敬称略

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