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【梅原猛さん死去】疑い、仮説立てる「勇気」と「好奇心」

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梅原猛さん
梅原猛さん

 梅原さんが頻繁に利用していた京都市内のホテルを訪れたのは、平成18年の師走だったように思う。著書「歓喜する円空(えんくう)」を書き上げたばかりの梅原さんに会うためだ。

 江戸前期の僧、円空は、無学で民衆をたぶらかしたという従来の説を、梅原さんはその著書で覆した。

 「愛嬌(あいきょう)いっぱいの円空仏を見たとき、僕は絶対に違う。仏像には人柄がでる。円空はそんな悪人じゃないと思ったんだ」

 梅原さんは約3年間、円空仏を求め、北海道、青森、秋田、三重など50カ所にも及ぶ山村、漁村を調べ歩き、約1700首もの和歌を見つけ出した。そこからは、子供を売る親の苦悩などを冷静に認識し、人間の「闇」を詠もうとする円空の姿が浮かび上がった。

 「円空は、まつばり子(私生児)。僕も赤子の時に母が死に、養父母に育てられた。まつばり子のようなもの。だから円空の孤独な気持ちが痛いほどわかる。円空が僕に乗り移り、書いてくれ、書いてくれというんだ」。手を何度も自身の胸にたぐりよせるようなしぐさをしてみせた。

 梅原さんの視座は、常に定説への疑問から始まっていた。

 戦後、大学では西洋の学問を研究し、発展させる「祖述学」が一般的だったが、梅原さんは疑問を抱き、自分で仮説をたて体系化することを考えるようになる。

 一族を殺害された聖徳太子の怨霊を鎮めるために法隆寺は建立されたという「隠された十字架」(昭和47年)、宮廷歌人の柿本人麻呂は、藤原不比等(ふひと)と対立したことで流罪人となり刑死したと論じた「水底(みなそこ)の歌」(48年)を相次いで発表。法隆寺建立や人麻呂の死の謎に迫った。

 現在では、高く評価されるが当初は、古代史や国文学の研究者からは反発、黙殺される。だが、時間とともに徹底した現地調査と資料研究に基づいた梅原さんの説を多くの学者が受け入れるようになる。

 「学問とは西洋の学説を紹介することではない。勇気を持って仮説を打ち出し、実証することだ」。梅原さんの口癖だった。

 その知的好奇心は森羅万象に及んだ。西洋哲学から始まり、日本古代史、アイヌ思想史、宗教、そして、歌舞伎と多彩な世界を最後まで縦横無尽に駆け抜けた「知の巨人」だった。(文化部長 丸橋茂幸)

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