PR

産経WEST 産経WEST

【虎番疾風録第2章】(3)「江川」どころじゃなかった虎番たち

Messenger
新大阪駅で田淵(右)と掛布(左)にはさまれ、にこやかな表情の後藤監督
新大阪駅で田淵(右)と掛布(左)にはさまれ、にこやかな表情の後藤監督

 江川の帰国も西武・堤オーナーの意味深長な発言も、虎番記者たちにとってこの時点では、あまり興味のない“関東の出来事”にすぎなかった。

 昭和53年シーズン。監督は吉田義男のあとをうけた後藤次男(当時54歳)。開幕直後にブリーデン、ラインバックが相次いで故障。主砲の田淵もシーズン中盤に腰痛を再発させた。若虎・掛布が球宴で3打席連続本塁打するなど一人気を吐いたものの、投手陣の崩壊も重なり、5月には最下位に転落。全球団に負け越し、9月14日の大洋戦(横浜)を1-11で大敗。12試合を残して球団史上初の「最下位」が決定すると、翌15日には大阪・梅田の球団事務所で長田陸(むつ)夫(お)社長が後藤監督の「退任」を発表した。

 「今季の不振は言い訳が利かない。1年で監督を交代させるのはかわいそうだ-という声もあるが、チームを強くする方が大事だ」

 1年での交代はかわいそう-。実はこの声をあげていたのは、当時の虎番記者たちだった。本来なら真っ先に「監督交代」を叫ぶ報道陣だが、このときばかりは後藤を責める新聞社はなかった。その理由は「監督就任」の経緯にあった。

 52年オフ、吉田監督が解任されたあと、なかなか後任監督が決まらない。誰もあえて“火中の栗”を拾おうとはしなかった。球団はOBの後藤に助けを求めた。これに虎番記者たちが反発した。

 「44年、2位となったクマさん(後藤監督の愛称)を『鶴岡一人氏を監督に迎えたいから』と一方的にクビにしておいて、今度は『誰もなり手がいないから頼む』は、あまりにも身勝手過ぎる」というのが虎番たちの主張。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ