【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(12)雄弁会や演劇で学生生活を謳歌…後の政治家になる萌芽
世耕弘一は日本大学の学生時代、人力車の車夫として働きながら学業に打ち込むだけでなく、雄弁会や演劇などで活躍した。雄弁会については「ちょいちょい各大学の雄弁大会へひっぱり出されていた」と語っている。
大正7年の予科の入学から12年の卒業までともに学生生活を送った元衆議院議員の三宅則義は語る。
「講師の休講の時は、時至れりと壇上に上がって、我々学生に対して演説を始めたものだ。世耕君は声がちょっと黄色かったが、特色があって、みんなが喜んで聞いたものだ」
弘一は羊羹(ようかん)色の紋服を着て授業の休憩時間や、休講のときは持ち前の甲高い声を張り上げ、教室を演説して回り、聴衆を魅了した。
〈下関と門司との海峡などはもちろん、九州と朝鮮との間の海底トンネルを建設しなければならない〉
〈アジアの背骨、ヒマラヤ山のある、ネパールにも幼稚園を設け、学校教育、人類の発展に貢献しなければならぬ〉
当時からスケールの大きなことを主張し、大政治家の風格があった。
弘一について、同じ日大1期生の学友は「関東大学雄弁会での優勝をきっかけに、全国雄弁会へとその名を馳(は)せ…」と語っている。学内だけでなく学外に活動の場を広げ、全国的な知られた存在になっていた。
弘一と同郷の元衆議院議員の山本勝市は京都大学の学生時代、京都で開かれた学生講演会に参加したときの思い出を振り返る。
「私も演壇に立ったが、世耕さんも日大学生として演説された。内容は記憶にないが、政治家のようなさっそうたる態度が印象に残っている」