PR

産経WEST 産経WEST

【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(10)「仕事と学業の両立考え」…日大予科へ入学と大学令

Messenger
大正9年に建てられた日本大学の校舎(日本大学広報課提供)
大正9年に建てられた日本大学の校舎(日本大学広報課提供)

 大正7年、中学校を卒業しなくても高等教育機関に進学できる「専検」(専門学校入学者検定試験)に合格した世耕弘一は日本大学予科に入学した。難関の専検にパスする学力の持ち主だった弘一は日大の入学試験にも合格している。

 「当時の日大は他大学と比べて学費が安く、講義は夕方からで仕事と両立しやすかった。時間の都合がつけやすい履修制度を導入していたことも大きかったと考えられます」

 弘一が日大を選んだ理由について、近畿大学名誉教授の荒木康彦は、こう説明する。7年2月の日大の学生募集広告にみると、やはり授業は各科ともに「午後5時半より開始」と記載されており、苦学生が働いた後に講義を受けることができたことがわかる。

 日大は明治22年に日本法律学校として創立し、36年に現校名に改称した現在では日本最大級の私立総合大学だが、当時は専門学校令に基づく法的認可を受けた存在だった。大学と称していたが、大学を規定するのは19年に公布された帝国大学令以外にはなかった。

 このため、大学の法的認可を受けていたのは帝国大学だけで、大学と称していた私立の学校は、法制上は専門学校に区別された。弘一が進学したのは専門学校としての日大が開設していた予科となる。

 ただ、当時は日本で高等教育の拡充が急速に進んだ時代で、私立大学の設立が認められるのに時間はかからなかった。大正3年に第一次世界大戦が勃発し、あまり関わることのなかった日本の戦争への財政負担が軽く、未曽有の戦時景気が訪れていた時代。工業化も進み、輸出も盛んになって明治末期以降の不況から脱した。日本の社会や経済が変化し、経済界で多数の優秀な人材を必要とするようになり、高等教育機関の拡充整備が政府の課題となっていたとされる。

 このため政府は高等教育施設の充実を進めた。「大学教育及専門教育ニ関スル件」を諮問された臨時教育会議は従来は官立の帝国大学に限られていた大学を公立、私立大学の設立も認めるべきであると答申。この答申に基づいて7年12月に大学令が公布され、翌8年4月に施行された。

 この大学令に基づき慶応義塾大学と早稲田大学が9年2月5日に認可された。そして日大は中央、法政、明治、国学院、同志社の各大学とともに同年4月15日に認可されている。

 ところが日大の場合、大学令に基づく昇格は一筋縄にはいかなかった。

 大学令は、私大が大学運営に必要な資金を生み出す一定の基本財産を所有する必要があるとして、現金などを供託することが定められていたからだ。規模が小さかった日大には難題として立ちはだかった。(松岡達郎)     =敬称略

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ