PR

産経WEST 産経WEST

【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(9)「ラクダが針の穴を通るより難しい」専検に合格して進学の道を開く

Messenger
大正時代の専検の概要が書かれた受験要領(日比谷高校記念資料館所蔵)
大正時代の専検の概要が書かれた受験要領(日比谷高校記念資料館所蔵)

 世耕弘一は旧満州(現・中国東北部)から東京に戻った大正5年の時点で23歳になっていた。中学校で学んでいない弘一は、5年もかかる中学校の修業年限を待つことなく、進学を可能とする「専検」(専門学校入学者検定試験)制度に着目した。そこで人力車の車夫をしながら、東京・神田(現・千代田区)の正則(せいそく)英語学校に夜間に通って大学を目指した。

 ただ、戦前の専検に合格するのは「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と評判になるくらいの難関の試験で、どんな難関校でも合格ができるほどの実力が必要といわれていた。

 専検の制度は明治36年に始まったが、大正13年に改定されるまで道府県ごとに実施され、受験者は一度に全科目の試験で合格点を取らなければならなかった。

 東京府(当時)が7年2月に実施した専検の「受験者心得」によると、試験は1カ月にわたったようだ。

 第1回(4日)数学▽第2回(8日)外国語▽第3回(12日)国語及び漢文▽第4回(16日)歴史、地理▽第5回(20日)物理及び化学、博物▽第6回(25日)修身、体操など。1科目でも成績が所定の標準に達しなかった場合、次の科目の試験を受けることができなくなる「ふるい落とし制度」で、回が進むごとに受験者が減っていった。

 弘一は専検の受験準備を進めたが、さすがに仕事と試験勉強の両立に苦しんだ時期があったとみられる。弘一を主人公とした昭和14年発表の実話小説「學生俥夫(がくせいしやふ)」=穂積驚(みはる)著=で、主人公は十分な賃金と勉強時間が確保できる仕事を紹介された際、車宿の親方にこう本音を語っている。

 「どんなに辛い事があっても閉口垂(へこた)れるものかと言う氣(き)ではゐましたが、肝心(かんじん)の大學(だいがく)に入る試験勉強(しけんべんきやう)が出來(でき)なくて實(じつ)は弱(よわ)つてゐたのです。是非共(ぜひとも)お願ひします」

 実は、弘一自身も後にこう打ち明けている。

 「働きながら勉強するというのは昼間の疲れが邪魔をする。知らず知らず大事な講義で居眠りし、それが何日も続くと、しまいに自分は頭が悪いのだ、これ以上勉強しても無駄だという悲観論が頭を支配した」

 そして「こんな頭の悪い人間が生きていてもつまらない」と思い詰め、橋の上から飛び込んで死んでやろうと水面を見つめたことがあったと打ち明けている。

 しかし結局、弘一は考え直して猛勉強した結果、大正7年に専検に一度で合格している。弘一が実際にどこの府県で専検を受けたかを裏付ける資料などは確認されていないが、資料の残る東京府の場合、3年後の専検の受験者199人のうち合格者は22人だった。やはり難関の「狭き門」だったことがわかる。(松岡達郎)     =敬称略

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ