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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(7)「分秒の間をさへ惜しまねば」…苦学生の「適切」な仕事だった人力車夫

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大正時代に使われていた人力車の復刻版。近畿大学の「不倒館」で展示している=大阪府東大阪市(薩摩嘉克撮影)
大正時代に使われていた人力車の復刻版。近畿大学の「不倒館」で展示している=大阪府東大阪市(薩摩嘉克撮影)

 苦学生時代、人力車を引きながら勉強した世耕弘一が昭和14年発表の小説「學生俥夫(がくせいしやふ)」=穂積驚(みはる)著=で主人公になった背景には、明治時代末期から大正時代初期にかけての苦学ブームというべき現象があった。

 当時、苦学をテーマにした書籍の刊行が増加し、苦学のノウハウ本も多数あった。そのなかで大正4年刊行の東京實業研究會編「東京苦學成功法 附録東京立身就職の手引」(大成社発行)には「苦學生の最好職業」が列挙されており、車夫については「身體(からだ)が頑健(がんけん)で勞働(ろうどう)を厭(いと)わぬ者には車夫が最も適當(てきとう)だ」と推奨している。

 〈人力車夫などは晝間(ひるま)などよりも夜の方が思はぬ収入があるものであるから〉

 〈苦學生諸君が車を曳(ひ)くとしたら如何しても晝間學校に通つて、仕事として夜引いた方が得策である〉

 手引はこうも解説しており、体力に自信があり、肉体労働を苦にしない若者には指南書のアドバイスに従い、夜間に車夫をしながら昼間の学校に通った苦学生も少なくなかったとみられる。

 弘一が車夫の仕事を選んだのは、友人から「車引きは自分の時間が持てる」と勧められたからだとされるが、友人はこのようなノウハウ本を読み、アドバイスをしてくれたのだろう。

 一方、小説では主人公の弘一は昼間の送迎の仕事をしている。弘一も後に「私は昼働いて夜勉強した男であります」と語っている。夜学が終わった後も公園の街灯のかたわらで勉強し、下宿に帰るのは午前2~3時だったのだが、賃金が約束された固定客を確保しているため客待ちをする必要もなく、決まった送迎以外は勉強に集中できた。このため主人公が令嬢の送迎についてこう感じていた。

 〈こんなに自由(じいう)を惠(めぐ)まれた仕事(しごと)は、廣(ひろ)い東京(といきやう)にも滅多(めつた)に無(な)い〉

 警視庁統計書によると、弘一が満州から戻った大正5年の東京府(当時)の人力車の車宿は195軒、挽子(車夫)は766人だった。以降、9年には車宿が241軒で車夫は1388人となっており、1軒当たりの車夫は5年が3・9人、9年には5・8人へとと増えているが、車宿の経営規模はそれほど大きくなかったとみられる。

 そして寝る間も惜しんで車夫の仕事と学業に励んでいた主人公はこう考えている。

 〈親の仕送(しおく)りで安閑(あんかん)として、勉學(べんがく)に專心出來(せんしんでき)る幸●(=示へんに福のつくり)(かうふく)な人達(ひとたち)とは、分秒(ふんべう)の間(ま)をさへ惜(お)しまねば追(お)ひ越(こ)す處(どころ)か肩(かた)を並(なら)べることも出來(でき)ないやうな氣(き)がするのだ〉

 お嬢様が恐怖を覚えるくらいの猛スピードで人力車を疾走させた弘一の胸中は当時の苦学生たちの思いを代弁している。(松岡達郎)     =敬称略

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