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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(6)街灯のもとで勉強…受験準備した正則英語学校

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大正時代の正則英語学校の規則書(近畿大学所蔵)
大正時代の正則英語学校の規則書(近畿大学所蔵)

 世耕弘一が大正5年に満州(現・中国東北部)から東京に戻った後、人力車の車夫をしながら通った東京・神田(現・千代田区)の正則(せいそく)英語学校は中学校ではなく、中学校と同等か、もしくはそれ以上のレベルの英語を教育する各種学校の位置づけだった。

 同校を前身とする正則学園高校(東京都千代田区)によると、明治29年に英語学者の斎藤秀三郎が創立。校名は「今までの英語の教育は変則的だ」と主張して「変則」に対する「正則」で英語を教えるという意気込みに由来するとされる。

 入学は随時自由で、卒業証書は一応出していたが、正式な学歴として認められるものではなかった。ただ優秀な学校と評判だったため履歴書にわざわざ同校で学んだことを記す人が少なくなかった。

 小説家の山本周五郎や政治家の石橋湛山(たんざん)らが学んだことで知られるが、政治学者の吉野作造が帝大生時代にひやかしに斎藤の講義を聴講しに行き、後に「帝大の教授にあのくらいの学力と迫力があったら、もっと学生が真剣に聴くだろう」と語ったといわれている。

 関東大震災で壊滅的な被害を受けたこともあり、当時の記録がほとんど残されておらず、正則学園高の高部英彦教頭は「多くの生徒が学び、英語教育史上でも大きな足跡を残しながら記録がないのは本当に残念です」と話す。

 弘一は東京・深川(現・江東区)の大湊(おおみなと)木材会社で働いていた時代から「夜学がある」と注目しており、満州から東京に戻ると、まもなく入学志願者に配る規則書を取り寄せている。

 当時の規則書によると、午前部(午前8時~正午)▽午後部(午後1~5時)▽夜間部(午後6~9時)が置かれ、それぞれ授業が行われていた。弘一が通った夜間部には英語初修者向けの「予備科」と、当時の中学校レベルの英語を習得する「普通科」、中学校卒業程度の学生を対象にした「英語補習科」があったほか、補習科の修了者か、同レベルの学生を対象とした「高等科」などが設置されていた。

 当時を知る学友の回想によると、15~16歳くらいの学生たちに交じって、すでに23~25になっていた弘一が受験勉強に励んでいた。とくに英語を勉強するのが大変な時代だったが、非常に熱心な勉強ぶりで、学校の外国人の講師を授業後に帰るときにつかまえては、嫌がるのもかまわずに質問をしたり、話しかけたりしていた。

 ある夜、その学友が帰宅しようと歩いていたとき、街灯の明かりの下で本を読んで勉強に熱中している人影を見つけた。気づかれないようにそっと近づき、顔をのぞいてみたら弘一だった。(松岡達郎)=敬称略

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