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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(4)学費を求めて満州へ…夢破れて東京に戻る

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木材店で働いていた当時の世耕弘一氏(近畿大学提供)
木材店で働いていた当時の世耕弘一氏(近畿大学提供)

 世耕弘一は大正4年、東京・深川(現・江東区)の大湊(おおみなと)木材会社を退職し、旧満州(現・中国東北部)に渡った。夜間中学校に進学することを望んでいたが、20歳を超えていたため「今さら中学へ入る年齢でもないだろう」と会社の理解を得られなかったことが理由だ。弘一には進学に必要な学費を新天地で稼ぐ望みがあった。

 日露戦争後のポーツマス条約で日本による大連・旅順租借権と旅順・長春間の鉄道権益が認められ、鉄道沿線などで開発ブームに沸き立っていた時代だ。一獲千金を夢見る野心あふれる若者たちが次々と渡ってきていた。野心を胸に満州に渡った弘一はさまざまな仕事に手を出したが、最後には失敗。翌5年に夢を打ち砕かれて東京に戻ってきている。

 満州時代の弘一をめぐる記録はほとんど残されていない。ただ、後に日本大学予科1年生に進学したときの新入学懇親会で、弘一が自己紹介で披露した満州での体験談が「桁外れ」と注目を集めていた。

 満州で山林材木を扱って金持ちになったり、人の口車に乗って芝居興行の興行主をさせられたり。芝居興行は割れるような人気で大入り袋を出し、羽振りの良いときもあった。しかし、役者が病気になって一座はあえなく解散、無一文の風来坊になってしまい、満鉄総裁の知遇を得ることもあったが実業として結びつくことなく、結局、内地でやり直すことにしたという。

 また、弘一が実名で主人公となっている昭和14年発表の実話小説「學生俥夫(がくせいしやふ)」=穂積驚(みはる)著=は満州時代についてこう書く。

 〈支那(しな)に乗込(のりこ)んで獨立(どくりつ)で商売(しやうばい)を始めたなら、學資金位(がくしきんくらい)は一擧(きよ)に得られるだらうと思つてゐたのだが、それははかなくも夢と破れて、持つて出た金はすぐ費(つか)ひ果し、大連から旅順、旅順から朝鮮-。その間、田舎芝居(ゐなかしばゐ)の太夫元(たいふもと)もやつた、洋傘直(かうもりなほ)し、だるま屋の帳場(ちやうば)、おでん燗酒屋(かんざけや)、仙人(せんにん)まがひの氣合術師(きあひじゆつし)、果ては自由勞働者(じゆうらうどうしや)にまでも身を落した。さうして四年前に東京に出て來て…〉

 満州では金を稼ぐこともあったが、あえなく失敗した。持ち金も使い尽くし旅芸人一座の興行主、こうもり傘の修理、安宿の帳場、屋台などを転々としながら東京に流れついたことをうかがわせる。小説だけに多少の脚色を加えられたものだろうが、満州での体験が甘いものではなかったことだけは想像にかたくない。

 東京に戻った後、弘一は人力車の車夫として働きながら東京・神田(現・千代田区)の正則(せいそく)英語学校に通って進学を目指した。満州での一獲千金は夢に終わったが、今度は苦学生として未来を切り開こうとしたのだ。   (松岡達郎) =敬称略

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