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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(2)地元の教育熱、学業への志の原点

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現存する世耕弘一氏の生家=和歌山県新宮市
現存する世耕弘一氏の生家=和歌山県新宮市

 世耕弘一は明治26年3月30日、和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡敷屋(しきや)村大字西敷屋(現・同県新宮市熊野川町西敷屋)で産声を上げた。農業を営んでいた父、佐七と母、しげの第9子で、村の神社に弘法大師伝説にまつわる井戸があったことにちなんで「弘」をもらって名づけられたといわれる。

 平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された熊野古道沿いで、熊野本宮大社(同県田辺市本宮町)から熊野川のやや下流に位置する弘一の故郷は今も農家が散在している。雨が降ると、切り立った山々に霧が立ち込める水墨画のような風景は当時とほとんど変わっていない。

 「世耕」-。この珍しい姓の家系は古い。

 言い伝えによると、12代景行天皇の末裔(まつえい)ともいわれている。かつての姓は「見坐地(みざじ)」といい、南北朝時代の南朝方の武士とされる。南朝が敗れた後、見坐地氏も大和から山伝いに紀州に逃れ、僧籍に入ったと伝わる。何世代かを経て見坐地氏の中に家臣を連れて川沿いに下り、西敷屋で「世耕庵」をむすんだものがいたとされる。さらに後に還俗して農民になり、一族はそのまま見坐地を名乗った。

 世耕姓は明治36年、父、佐七の代に庵の名をとって改姓したものだ。弘一が10歳のときのことになる。

 弘一の実家は、一町三反歩(約1・3ヘクタール)の田畑とともに、若干の山林も所有していたとされ、村でも中農に属していた。弘一の生家は現在も残されており、間取りは台所と2部屋の簡素な木造平屋建て。そこに両親と兄4人、姉4人、妹1人が暮らしていた。

 「明治期のこの辺りの生活は貧しく、白米が食卓にでるのは正月くらい。普段はコメのかさを増やして腹持ちをよくするため番茶で炊いた茶がゆを食べていました。熊野川などでふんだんに取れるアユやカワエビなどがごちそうだったと思います」

 弘一の月命日に生家近くの墓所を掃除している近大付属新宮高等学校・中学校(同県新宮市)事務長で地元出身の中村佳嗣(よしつぐ)はその暮らしぶりをこう説明する。

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