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【維新150年】西南戦争を予言した大村益次郎

大村益次郎碑=24日午後、大阪市中央区(須谷友郁撮影)
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 晩秋の大阪城を訪ねる。大阪城ホールを抜けると、太陽の広場前に「砲兵工●(こうしょう)跡」の碑があった。かつて大砲など大型兵器を製造した東洋一の軍需工場で、今の大阪ビジネスパークもその跡地にできた。大阪空襲で壊滅したが、集約された技術力は戦後の工業都市・大阪の基盤となった。

 落ち葉を踏みしめ青屋門から二の丸へ進む。極楽橋から京橋口方面に目を向けると、そこはかつて陸軍士官学校のルーツ「兵学寮」があったところ。本丸に上がると、中世ヨーロッパの古城を思わせる重厚な建物。今は「ミライザ大阪城」と呼ばれる商業施設も、戦前は陸軍第4師団司令部、さらに明治に遡(さかのぼ)れば大阪鎮台の本営があったという。

 維新後、「大坂」が「大阪」に変わる頃、大阪城も一大軍事基地に変貌しようとしていた。大阪城に近い、国立病院機構大阪医療センター(大阪市中央区、旧国立大阪病院)の敷地に巨大な石碑が立つ。「大村益次郎卿殉難報国之碑」。大阪を拠点に近代軍制を進めた天才軍略家の顕彰碑だ。

   × × ×

 大村は維新10傑の1人に数えられるが、尊皇攘夷運動とは無縁である。周防国(山口県)の村医の家の生まれで、下級武士ですらなかった。剣術はおろか、馬にも乗れなかったという。

 22歳の時、大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、西洋兵学の研究に没頭した。その後、宇和島藩(愛媛県)や幕府の要請で近代兵学を講義したが、宇和島で軍艦の建造を指導するなど、実践的な学者であり、技術者だった。

 その大村を江戸で見いだしたのが長州の桂小五郎(木戸孝允)である。帰藩した大村は高杉晋作とともに藩の軍制を改革、近代兵器と農兵を主体とする軍体系を確立させる。第2次長州征伐(幕長戦争)では、自ら方面軍の指揮官となり、巧妙な用兵と合理的な戦術で幕軍に連戦連勝、これを撃破したのだった。

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