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【虎番疾風録(22)】「長嶋愛」届かず…ミスター「二浪宣言」

9月24日午後10時、東京・田園調布の自宅前で「二浪宣言」する長嶋氏
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 「ウチを再建できるのはあなたしかいない。すべてをあなたに委ねます。どうかこの願いを聞き届けてほしい」

 長嶋茂雄が大洋漁業・中部藤次郎社長の熱い思いが面々と綴(つづ)られた手紙を、第3者を通じて受け取ったのは6月上旬のことだった。球界ではその手紙を「中部親書」と呼んだ。

 長嶋が大リーグ視察から帰国する前日の9月16日、東京・丸の内の大洋漁業本社では、中部社長をはじめとする本社上層部による緊急会議が開かれた。議題は18日に正式に監督を要請するに当たり、何を“条件”として提示するかだった。

 契約金や年俸の額ではなかった。なんと、スタッフの人選、トレード、外国人選手の獲得、ドラフト、さらには球団フロントの人事権すべてを長嶋に与える-という「全権委任」を決定した。そうせざるを得ないほど大洋球団は窮地に立たされていたのである。

 昭和53年、大洋ホエールズは本拠地を川崎球場から横浜スタジアムに移し、球団名にも都市名を入れ『横浜大洋ホエールズ』に生まれ変わった。別当薫監督のもと移転初年度は4位に終わったものの、観客動員は初めて100万人を超え、翌54年は2位に躍進した。

 だが、55年に別当が球団代表に就任し、監督が土井淳に代わると、チームの成績は下降線をたどり始めた。

 「投手の弱体化」「ベテランの高齢化」「外国人選手の不発」が重なり55年は4位に転落。その年のドラフトで地元、東海大の原辰徳を巨人に奪われると、観客動員数が激減。56年シーズンはその巨人に8連敗を喫するなど、5月に最下位に沈んだまま浮上せず、最終的に首位巨人に31・5ゲーム差をつけられる断トツの最下位。「横浜スタジアムには閑古鳥も寄りつかない」とまで言われた。

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