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【石野伸子の読み直し浪花女】竹林の隠者・富士正晴(7)引きこもる一兵卒 童貞、ビンタ、中国人ニヒリズム…戦後「ベンチャラ人種」「サーヴィス精神」に疲れた

“竹林の隠者”と呼ばれた富士正晴。訪ねてくる人々との交友を楽しんだ=昭和53(1978)年1月
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 富士正晴が大阪・茨木市の自宅に引きこもり、「竹林の隠者」と呼ばれるようになるのは昭和40(1965)年前後、50代に入ってからだ。

 東京・大阪間に新幹線が走り、活発に人が往来する高度経済成長期にあって、時代に背を向けるように竹林にこもった。

 それは意識的なものだった。昭和42年に書いた「わたしの戦後」という文章にこうある。

 「考えてみると、わたしの戦後は、わたしの行動をせまくし、鈍重にし、まるで坐りこんでしまっているような形になりつつあるもののようだ」

 なぜか。

 「勇まし気な奴が最も女々しい奴であり、立派なことを喋りちらす奴がもっとも不立派な奴であることを一わたり知り得たことが敗戦後のありがたさであった」のに、いつのまにかそれを忘れて「強力なものへのベンチャラ人種がうごめきはじめ」「サーヴィス精神の産物にわたしは疲れを感じる。わたしは最近になればなる程、日本の戦後と反(そ)りが合わぬ感じがする」と書いた。

 富士正晴の戦後は自分の戦争体験を文学にすることだったといっても過言ではない。

 富士正晴は昭和19(1944)年2月に召集されて中国に送られ、機関銃中隊の弾薬運搬兵として大陸を行軍した。敵軍の飛行場を破壊して歩くのは主な任務だったらしい。華中・華南をひたすら転々とし、敗戦の後もしばらく武装解除しないまま行軍しつつ、結局捕虜となり21年5月に大阪に復員した。

 その間の体験を昭和25年に初めての小説「ひとこま」として作品化して以来、20年近くかけて戦争小説を書き続けた。

 それらのうち、「敗走」(昭和26年)と「徴用老人列伝」(昭和40年)が芥川賞候補に、「帝国軍隊における学習・序」(昭和39年)が直木賞候補になった。軍隊ものの世間の評価は高い。

 富士が書こうとした戦争は何だったか。

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