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【石野伸子の読み直し浪花女】竹林の隠者・富士正晴(5)華麗なる一族「幾度目かの最期」の衝撃 そこで「贋・久坂葉子伝」

「16、7の娘に見えたり、30歳位の落ち着いた女性に見えたりした」と富士正晴が評した生前の久坂葉子(久坂葉子研究会提供)
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 久坂葉子は華やかな経歴をもつ女性だった。

 川崎造船所創立者・川崎正蔵につながる神戸の名門一族の出身。相愛女子専門学校のピアノ科を中退した後、友人の紹介で神戸で教師をしていた島尾敏雄を知り、その紹介で昭和24(1949)年「VIKING」( http://viking1947.com/ )に入会し、富士正晴に師事した。

 まだ18歳という若さ。ところが翌年書いた「ドミノのお告げ」が芥川賞候補になり大きな注目を浴びる。才能にあふれ、昭和27年の大みそかに自死するまで、わずか3年ほどの活動だったが、数多くの詩、小説を残し、脚本を書き演劇にも興味を示した。

 21歳で命を断った「幻の作家」。久坂葉子は熱心な愛読者によって長く語り継がれることになった。死後、富士正晴の手で作品集や詩集、書簡集などが編まれたほか、平成15(2003)年には全3巻の全集(鼎書房刊)も出された。また昭和53年には「久坂葉子研究会」が発足し、4冊の研究誌も出版されている。

 当然、死の直後の注目度は高かった。

 富士は、いち早く動き、「VIKING」「VILLON」合併号による追悼号を編集すると同時に、単行本出版を模索した。まず久坂葉子の父・川崎芳熊の出資により、人文書院からの遺稿集出版が決まった。

 ところが、富士と遺族と世間との思いは微妙にズレていく。死後3カ月後には早くも合併号が完成するが、これを見た遺族は困惑する。追悼号には久坂葉子が死の直前に書いた「幾度目かの最期」が掲載されており、遺族はその中身を初めて読んで驚いたのだ。

 遺稿は原稿用紙百枚あまりのもので、死の3日前から書き始められている。

 知り合いの夫人にあてた告白文のような形で、「これは私の最後の仕事。これは小説ではない。ぜんぶ本当。真実私の心の告白」と綴(つづ)られる。内容は3人の男たちへの愛情、あるいはその男たちの間で揺れる自分を「罪深い女」と悩み、苦しむ心情が克明に記されている。

 自分が自殺するのは「厭世(えんせい)ではなく愛情の破局」だが、自分の重荷の中には三代にわたる家族の歴史がある。「有名な曾祖父、祖父、父、貴族出身の母」をもち、その生き方に厳しい目をそそいでいる。

 そして、この原稿は最後に愛情を寄せた男に読んでもらい、あとは彼の意志にまかせるが、結局「富士氏の所へもって行ってもらうなりして」発表すべく書いたものだと記している。

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