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【夕焼けエッセー】あの電話

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 私は理容師で、店を開業してから四十数年になる。二十年位前から定休日には趣味の軽登山を楽しみにあちこちの山へ出掛けている。

 今日は、久々に電車を利用しての用の帰りだった。車窓から見える綺麗な夕日は、今にも岩橋山に沈み入りそうだった。実に西の空が美しい。そうだ。あの日もこんな綺麗な夕日だった。本当は。

 世間では、ぼちぼち携帯電話が使用され始めていた頃だった。私はまだ持っていなかった。あの日は、曽爾(そに)村にある山へ登った帰りの電車内での事。車内は比較的空いていた。私はサラリーマン風の中年男性の隣りに腰掛けた。電車の揺れが心地好い。健脚向きの山だったせいか疲れてうとうとしかけていた。

 突然「やあ こんにちは」と男性の声が耳に入って来た。私は咄嗟にリュックサックを抱えてぱっと立ち上がり「いらっしゃいませ」と。はっと我に返り、そうだここは電車の中だ。私は電車に乗っていたのだ。店にいたのでは無かった。前に三人の女子高生、その隣りにはお婆ちゃん。皆、口に手を当て笑っているではないか。ああっ。まさか隣りの男性の携帯電話での会話とは。私は顔から炎が飛び出し重度の火傷患者の様だ。座ってから一度も顔を上げられず固まってしまった。消えてしまいたかった。

 確かにあの日も今日みたいに綺麗な夕日だったことが、今やっと思い出された。

倉本鳴美 (67) 理容師 奈良県広陵町

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