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【今週の注目記事】碁盤の目・平安京に長年残された意外な「手つかずの土地」とは

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【今週の注目記事】
碁盤の目・平安京に長年残された意外な「手つかずの土地」とは

仏堂とみられる遺構周辺から出土したガラス玉。貴族の拠点が存在していたことをうかがわせる(京都市埋蔵文化財研究所提供) 仏堂とみられる遺構周辺から出土したガラス玉。貴族の拠点が存在していたことをうかがわせる(京都市埋蔵文化財研究所提供)

 このブームが起きた理由について西山名誉教授は平安時代中期から広がった末法思想を挙げる。世が乱れ、死後の極楽往生を願う貴族は仏堂を建て、願望を果たそうとする。しかし、京内で建てることは禁止されているため、宇治・平等院のように京外に建立するが、唯一京内で建てられた場所が“僻地”のこの一帯だった。

 また網教授は「穢(けが)れ」に対する恐れも要因の一つと指摘する。湿地帯が遺体遺棄の現場にもなっていたというのだ。平安前期の承和9(842)年には近くの鴨川で5500余りの髑髏(どくろ)を焼却させたとの記録も残る。

 「施薬院でも数多くの死をみてきたはず。平安貴族は穢れに敏感だったために長い間、施薬院周辺の土地から離れたものの、邸宅を建てるにあたって供養も兼ねて堂を建てた可能性もある」と網教授はみる。

 そんななか、最も大規模に開発が行われたのは、この地に八条院(1137-1211年)が御所=地図の(4)=を構えてからのことだった。八条院は鳥羽上皇の娘で、兄弟に近衛、崇徳、後白河天皇がいる。父母から譲られた荘園からあがる資金を元に御所の1キロ四方を次々に開発していった。

 この周辺の調査では、この時期の遺構が飛び抜けて多い。その過程は、平安京の葬送の地・鳥辺野(とりべの、現在の東山区)に近い六波羅を、平家政権と鎌倉幕府が武士の町へと変えていった姿によく似ているという。

 千年の都の“僻地”のさらなる解明に期待が集まる。

(7月6日掲載)

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