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【歴史インサイド】「碁盤の目」平安京に長年残された手つかずの土地とは

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【歴史インサイド】
「碁盤の目」平安京に長年残された手つかずの土地とは

平安京南東隅の地図 平安京南東隅の地図

 西山良平・京都大名誉教授(日本古代・中世史)は〈湧き水多く流水満ち溢れていた〉という当時の記述から、「この地が涼みに適し、貴族たちの夏の避暑地として使われた可能性が高い」と推測する。

 そういった場所に朝廷のトップを牛耳った貴族の中の貴族の藤原氏が開設したのが「施薬院(せやくいん)」だった。施薬院は困窮者を救済する目的で設けられた医療施設だ。

 施薬院は、奈良時代に藤原不比等の娘で聖武天皇の皇后・光明子が孤児の保護施設「悲田院(ひでんいん)」と一緒に、平城京にはじめて創設した。貧しい病人の治療のほか薬の無料支給などを行い、平安京へ遷都した後も藤原氏が中心となって運営していた。

空白の400年

 鎌倉時代の仏堂跡が見つかった九条三坊八町の東隣の「九町」=地図の(2)=でも、昨年から今年初めにかけて元興寺(がんごうじ)文化財研究所(奈良市)が実施した調査で、平安時代後期の仏堂とみられる4間(約8メートル)四方の建物跡が見つかった。また、平安前期の9世紀代の水田の耕作跡が出土している。

 当時、京内で耕作地を設けることは禁止されていたはず。さらに南北道路・室町小路が通っているはずの場所からは道路跡が出ず、その代わりに自然の流路が確認されただけだった。

 さらにその周辺からは10世紀後半に鴨川が原因とみられる大規模な氾濫が起きたことを示す土砂の堆積跡が出土。以後、この地に開発の手が入るのは、約200年後の平安時代末まで待たねばならなかった。

 西山名誉教授は「京の南東部は、(平安京の)碁盤の目の町の基となる条坊(じょうぼう)制が施行されていなかった可能性が高い」とみている。

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