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【夕焼けエッセー】バターを塗る

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【夕焼けエッセー】
バターを塗る

 横浜に住む次男は盆と暮れには毎年家族と一緒に帰省してくれる。

 わが家の朝食はパンときまっている。彼の奥さんや二人の娘が朝食を用意し、パンが焼けると息子の出番だ。

 彼はホイホイとやってきて真剣な目(まな)差(ざ)しで家族のためにバターを塗る。

 夏の朝の溢(あふ)れる光や、お正月の匂いのする暖かい台所、さんざめく若い人たちの息吹、そんな光景は私の人生の大切な一コマである。

 今朝も私は朝食のトーストにバターを塗っている。

 主人と二人でも広すぎた台所は、一人になった今ではもっとだだっぴろい。米寿を過ぎた主人は昨年道路で転倒して右半身をやられ自力では歩けなくなった。体調もすぐれず、いろいろあって先月から近くの介護専門のホームにお世話になっている。

 私は“家での介護、もう少しがんばれたのではないか”と反(はん)芻(すう)しながらバターを塗る。

 長男夫婦や介護関係の方々の助けを借りながらここまできたけれど、これが限界と私が入所を決断した。

 手厚い介護を受け、穏やかな表情の主人を見るとこれでよかったのだとほっとする半面なんだか泣けてくる。

 もう少しなんとかならなかったか、いや無理だったとバターナイフの先がにじんでみえる。そういえば元気だった頃、主人もパンにバターを塗ってくれた。丁寧に、惜しげもなくバターを塗ったパンの仕上がりは絶品だ。

 何気ない日常がそこにあった。毎朝、私のすることは変わらないのに思いもよらぬ方向に人生は動いていく。

 定まらぬ春の光の中で涙もろくなった私である。

山田和(かず)(80)主婦 大阪府吹田市

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