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【虎のソナタ】退路断ち必死のパッチ、恐妻家で誰からも愛されたバッキー あの“青春群像”状態が今の藤浪にあれば…

キャンプで投げるバッキー氏。最初はひどいコントロールだった
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 本日から、タイガースの球史に輝くジーン・バッキー投手の連載が始まりました。

 彼は7年間、阪神で投げて、1969年だけ近鉄に移籍したが、そこでは1勝もできなかったから、事実上、阪神での7年間で燃え尽きた…といえる。

 実は筆者はその7年間、新米記者として、バッキーの「日本でなんとかしたい」という必死な姿を見てきた。これほど「日本に飛び込み、退路を断ち、必死のパッチで嫌な顔をみせず、それでいてものすごい恐妻家(愛妻家)で、誰からも愛された外国人投手」はいない。

 56年前に、それこそ帰りの飛行機代すら持たずに日本にやってきて、阪神のテストを受けた。その苦労話は連載でとくと読んでほしいが、それを読破したマジメ人間の当番デスク野下俊晴も「彼の真摯(ひたむきなこと)さには感動した…」という。といってどこかの修道院のような話では断じてない。彼は自分を追い詰めて、日本の野球にとびこんできた。

 入団テストのために来日したのが1962年7月18日。伊丹についたときに出迎えたのは当時、球団の多賀井氏という方で、営業担当の事務職だった。それでもバッキーは手をギュッと握って「よろしくお願いしますョ」と何度も繰り返したという。多賀井氏がいつもシミジミと「彼は本当にひたむきだった。あの気持ちが成功の第一歩だと思う」と言っていた。

 しかし…川崎重工のグラウンド(当時、そこで2軍が練習)のテストではひどいノーコン。捕手が右に左にかえる跳びのように追いかけるという荒れ球。「使いモノにならん」という声に当時、監督だった藤本定義だけがガンとして「いや、なんとかなる」といい、そのまましばらくテスト継続入団? ということになった。

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