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【戦艦大和のミュージアム(1)】海軍がやってきた 大和ミュージアム学芸員・道岡尚生さん

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【戦艦大和のミュージアム(1)】
海軍がやってきた 大和ミュージアム学芸員・道岡尚生さん

明治期の広島県呉市内(写真提供 大和ミュージアム) 明治期の広島県呉市内(写真提供 大和ミュージアム)

 旧海軍が広島県呉市に鎮守府を設置したのは、明治22(1889)年のことである。鎮守府とは海軍の拠点で、呉は横須賀(神奈川県)に次いで開庁した。それまでの呉は農漁業と港町からなる、瀬戸内に見られるような村であった。

 各軍港内には海軍工廠(こうしょう)が併設されていく。呉では、36年に以前から造られていた造船・造兵廠を統合して海軍工廠とした。

 軍港の整備とともに市街地の近代化も進められた。碁盤の目状のように整えられた街区、幹線道路の整備、近代的な建物などが日を増すごとに築かれていく。42年には、広島県で初めて市街電車が開業される。工廠内で使われていた電力の一部が市街地にも供給されたことにより、こうした電化事業がいち早く取り組まれた。

 海軍が入ってくる前の呉の人口は、約2万人であったが、明治40年代には5倍の10万人となった。さらに人口は爆発的に増加。昭和20(1945)年時には40万人に膨らんだ。市民の多くは、海軍工廠に職を求めて全国からやって来た。市街地は平地が少ないため、急峻(きゅうしゅん)な山肌に住宅地が階段状に築かれた。それは「海軍のまち呉」の象徴的な景観となっている。

 海軍工廠では、近代的な造船技術を駆使してさまざまな艦艇が建造された。呉に鎮守府が設置されてから14年後の明治36年に国産初の大型装甲巡洋艦「筑波」が進水した。このとき学生時代の藤田嗣治(画家、1886~1968年)も進水式を見物している。

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