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【歴史インサイド】〝酒乱〟で近藤勇とモメて切腹? 場所にも諸説…新選組の新見錦、ナゾの人物像に光当たるか

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【歴史インサイド】
〝酒乱〟で近藤勇とモメて切腹? 場所にも諸説…新選組の新見錦、ナゾの人物像に光当たるか

「新家粂太郎」の署名がある借用書(京都府立総合資料館所蔵)=提供写真 「新家粂太郎」の署名がある借用書(京都府立総合資料館所蔵)=提供写真

 2人に関する記述が登場するのは、全30巻「石河明善日記」のうちの19巻。文久元(1861)年2月26日に「政府(水戸藩庁)より名指召捕り人別」と記され、10人の名前の中に2人に関する情報が含まれていた。

 「石河明善日記」では、出自について「乙太郎の伜 金町スルガヤ弟其後江戸へ五六年余り金健(金子健四郎)弟子に成候」と記載。新家粂太郎が弟子入りしたとされる金子健四郎は、神道無念流の剣客、岡田吉利の高弟だ。

 また、同郷の芹沢は本名が「下村嗣次」で、元々は武士の出身ではなく、父親が百姓の身分から神職に就いたことがうかがえる。

酒さえなければ…

 新見と芹沢の2人は万延元(1860)年に水戸で形成した過激派集団「長岡勢」が二分してできた「玉造勢」に参加。玉造勢は、攘夷決行のための軍資金を半ば強引に富豪から調達したため、藩庁が玉造勢の一斉逮捕を命じ、新見らも文久元(1861)年に捕らえられた。

 文久2年、清川八郎の恩赦運動で2人は釈放され、当時幕府が募集していた浪士組に応募、京都に向かい、新選組創設に立ち会うことになる。

 小林さんによると、新見はこの時から、変名で「新見錦」の名前を使うようになったという。主に金策に奔走していたようだが、新見は度々問題を起こして謹慎処分を受けていた。

 水戸藩士で、面倒見がよかったという京都本圀寺詰の吉成勇太郎が記した「池田家文書」(岡山大学附属図書館蔵)の文久3年8月の記録には、新家粂太郎が6月に長州の外国船砲撃に関して、攘夷実行を促す勅使・正親町公董の親兵となって長州に向かい、不祥事を起こしたときのことが記されている。

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