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【ヤマトタケルのまほろば 第2部】熊曽国(2)豊かなる地に討伐拠点

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【ヤマトタケルのまほろば 第2部】
熊曽国(2)豊かなる地に討伐拠点

ヤマトタケルの上陸地と伝承される年の森。田の中に残り、小さな祠が祭られている=宮崎県川南町(恵守乾撮影) ヤマトタケルの上陸地と伝承される年の森。田の中に残り、小さな祠が祭られている=宮崎県川南町(恵守乾撮影)

 宮崎県川南町平田。蛇行しながら日向灘に注ぐ平田川の河口から約3キロの広々とした田の真ん中に、森と呼ぶには気がひけるほど小さな木立がある。「年の森」。尾張・尾津前をたった倭建命(やまとたけるのみこと)(日本書紀では日本武尊)が上陸したと伝承される地だ。

 「川は蛇行しているが、直線にすれば河口から1キロほどしかない。ここまでは緩やかな流れで、しかも見通しの利かない地形だから安全と考えたのでしょう」

 約300メートル離れて鎮座する平田神社の永友敬人宮司はそう話す。同神社の祭神は日本武尊。16代仁徳天皇の時代に地元の人々が、ヤマトタケルの徳を慕って神殿を建立したと伝わる。

 平田川を隔てた小山は地御山と呼ばれる。ヤマトタケルが宮居とし、熊曽建(くまそたける)討伐の拠点とした地である。

 「ヤマトタケルは凱旋の際にも立ち寄ったと伝承されています。よほど地元の人々が歓待したのでしょうし、物資も豊かな地だったからでしょう」

 物資、特に食糧が豊富な土地だったことは戦国時代の史料でもうかがえる。豊後・大友氏と薩摩・島津氏が激突した天正年間、大友氏は同神社に隣接する松原に必ず、陣を築いた。

 「平田川は今も川南町の真ん中を貫流して農業を成り立たせている。江戸時代にも平田方百町歩といわれるほど米がよく取れた地。それが宮居を設けた理由でしょう」

 元同町教育委員の高尾日出夫氏はそう話し、古代から漁業も盛んだったことを指摘する。昭和40年代(1965~1974年)、網漁に使用したと考えられる石の錘(おもり)が多数発掘されたのである。

 「ひもを巻くくぼみが多数あって、石器時代の網に使用されたと考えられる。2000年前には年の森周辺は、海が入り込んでいた可能性も高い」

 ヤマトタケルの遠征時には、米だけでなく海産物にも恵まれていたという指摘である。

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