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【神武・海道東征 第10部】当芸志美々命の変(1)悲劇生んだ大后と妃の格差

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【神武・海道東征 第10部】
当芸志美々命の変(1)悲劇生んだ大后と妃の格差

タギシミミを祭る吾田神社。地元では家族円満、安産などをかなえる神とされる=宮崎県日南市(恵守乾撮影) タギシミミを祭る吾田神社。地元では家族円満、安産などをかなえる神とされる=宮崎県日南市(恵守乾撮影)

 〈(かれ)日向に坐(いま)しし時に、阿多の小椅君(をばしのきみ)が妹、名は阿比良比売(あひらひめ)に娶(あ)ひて、生みたまへる子、当芸志美々命(たぎしみみのみこと)、次に岐●美々命(きすみみのみこと)〉     (●=さんずいに順のつくり)

 古事記は、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が大和で建国したことを書いた後、初めてその家族について触れる。〈(しか)あれども更に、大后(おほきさき)と為(せ)む美人を求(ま)ぎたまふ〉。しかし、古事記の記述はそう続き、3人の妻子について、ほとんど書かない。

 長子であるタギシミミについて、「手研耳命」という表記で、その活躍を書くのは日本書紀である。

 〈天皇独り、皇子手研耳命と軍を帥(ひき)ゐて進み、熊野の荒坂津に至ります

 〈其の庶兄(ままえ)手研耳命、行年(とし)(すで)に長け、久しく朝機を歴(へ)たり

 最初は、兄たちを失ったイハレビコが熊野まで進んだとき、次はイハレビコの崩御の後の記述である。東征中には軍勢の先頭に立ち、建国後は政治的手腕をふるったことがうかがえる。

 「イハレビコが東征のために日向をたったときは45歳ですから、長子のタギシミミは20代半ばの頼もしい青年、崩御のときも働き盛りだったのではないか」

 古事記が書く阿多とされる地に立って、タギシミミを祭る吾田(あがた)神社(宮崎県日南市)の日高輝久宮司はそう話す。

 記紀ともにタギシミミを書く場合、崩御後は必ず冠する言葉がある。「庶兄」である。異腹、妾腹の兄という意味で、イハレビコが建国後、大后を求めたとする古事記の記述と符合する表現だ。

 「神話の世界でも、妃とされる妻と大后、皇后とされる妻には格差があった」

 そう話すのは大阪市立大の毛利正守名誉教授。それを象徴的に示すのは、娘のスセリビメと駆け落ちしようとする大国主命に、須佐之男命が悔し紛れに放つ言葉である。

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