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【戦後70年】「海に行けば水がある」焼夷弾が落ちる中、必至に走った…体験記出版、未来の平和へつなぐ 元西宮市議、生瀬悦子さん(84)

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【戦後70年】
「海に行けば水がある」焼夷弾が落ちる中、必至に走った…体験記出版、未来の平和へつなぐ 元西宮市議、生瀬悦子さん(84)

母校の思い出をまとめた本を読みながら戦時中を振り返る生瀬悦子さん=兵庫県西宮市(頼光和弘撮影)

 国民学校5年の時に太平洋戦争の幕が開けた。当時は、ラジオから流れてくる勇ましい音楽に、戦争がどのようなものか分からず、わくわくしていた。

 《昭和18年、西宮市立西宮高等女学校(現・市立西宮高校)に入学。学徒動員のため、宝塚市の工場で飛行機の外輪を研磨する作業に従事した》

 20年8月6日未明、西宮市を大規模な空襲が襲った。同市久寿川町の自宅には当時、母と体が弱かった次兄、2歳上のいとこがいた。

 その日はいつも通り、普段着を着たまま床についていたが、「起きなさい!」という母の声で目が覚めた。窓から白い煙が流れ込んでいた。外では、サイレンや、「バリバリッ」と何かが燃える音がした。

 焼夷弾(しょういだん)が落ちる中、水にひたした夏布団をかぶって母や兄らと逃げた。あちこちから火が上がり「海に行けば水がある」と考え、自宅から約1・5キロ南の海に向かって必死に走った。

 途中、大きな音を立てて爆撃機が近づいてきたので、みんなでとっさに近くの家の軒下に隠れた。焼夷弾が雨のように降り注いだ。一緒に逃げていた1つ年上の幼なじみに直撃し、亡くなった。しかし、引き返すことはできない。ほかにも道に倒れて亡くなっている人たちをまたぎながら、命からがら海までたどり着いた。

 夜が明け始め、家に戻ろうと甲子園球場の横を通り過ぎようとしたとき、顔をハンカチで覆った人が30人ぐらい寝転んでいた。「疲れて寝ているんだろうか」と思ったが、よく見ると、みな空襲で犠牲になった人だった。

 それから終戦まで、その日の食べ物や水を確保することに必死で、働いていた工場にも、学校にも行かなかった。亡くなった幼なじみの葬式をしたのかどうかも、記憶にない。

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