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【渡部裕明の奇人礼讃】細川政元(上)超能力あこがれ…信長も真っ青、比叡山を焼き討ち 将軍家を廃しクーデター

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【渡部裕明の奇人礼讃】
細川政元(上)超能力あこがれ…信長も真っ青、比叡山を焼き討ち 将軍家を廃しクーデター

細川政元像(龍安寺)

 細川政元(まさもと、1466~1507年)と聞いて、ピンとくる人はかなりの歴史通といっていいだろう。「応仁の乱」で東軍を率いた細川勝元の嫡男で、足利将軍家を補佐する管領(かんれい)をつとめた。しかし、それに収まらず、ときの将軍の首をすげ替えるクーデターまでやってのけた。今回は、戦国の世を代表する「下克上」を地でいった奇人の生涯を追ってみよう。

 ●乱世の始まりとともに

 政元が生まれた文正元年は、室町幕府第8代将軍・足利義政の治世である。政元の「元」の字は、主君の義政から与えられたのだ(偏諱=へんき)。誕生の翌年には応仁の乱が勃発しているから、彼の人生はまさしく乱世の始まりとともにあったことになるだろう。

 細川氏は、足利氏から分かれた源氏の名門である。母親は「応仁の乱」の西軍の大将・山名持豊(もちとよ、宗全)の娘とされる。しかし、幼少時のことはほとんど伝わっていない。のちの彼の酷薄なふるまいの数々からみて、家庭的な幸せが薄かったのかもしれない、と思ってしまう。

 さらに8歳のとき、父親の勝元が44歳の若さで亡くなった。細川本家(京兆家=けいちょうけ)の家督を継ぐことができたのは、叔父の後見があったからだ。

 応仁の乱は終息したものの、余韻は残っていた。9代将軍・足利義尚(よしひさ)はまだ若く、守護大名を押さえつける権威はなかった。文明18(1486)年、21歳になった政元は初めて管領に就任したが、存在感を発揮するところまでいかなかった。さらに3年後には、義尚が近江国(滋賀県)に遠征中、急死し、翌年には義政まで亡くなってしまう。

 最も困ったのは、義尚に男子がいなかったことである。次の将軍を、だれにしたらいいのか。政権を支える政元には、大きな課題が投げかけられたのだった。政元には別の意中の人物もいたが、義政未亡人の日野富子の意向を重視し、義政の甥(おい)にあたる義材(よしき、のち義稙=よしたね)を将軍に戴(いただ)くこととした。

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