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【戦後70年】血に染まった乳母の顔、銃弾・砲弾の嵐…西宮在住ラストエンペラー血族の回想「多くの人に守られ生かされた」

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【戦後70年】
血に染まった乳母の顔、銃弾・砲弾の嵐…西宮在住ラストエンペラー血族の回想「多くの人に守られ生かされた」

周恩来首相主催の昼食会での記念写真。前列右から溥傑、浩、周恩来、嵯峨尚子(浩の母)。福永さんは浩の左後方。左から2番目が溥儀=1961年、中国(関西学院大学博物館提供)

 その後も軍に拘束されたまま中国東北部を転々とし、延吉では軍に市中を引き回されて市民に石やつばを吐きかけられたことも。ハルビンで釈放され、日本に引き揚げる開拓団に紛れて歩き続けてようやく港にたどり着いたが、今度は国民党軍に戦犯として捕らえられた。上海で元軍人の日本人に救出されて日本への引き揚げ船に乗るまで直線距離にして約6千キロ、約1年5カ月に及ぶ流転の日々の中で、母娘の目の前で多くの命が奪われたという。

鮮血で染まる顔、折り重なって守ってくれた人々

 福永さんが鮮烈に覚えていることがある。通化事件で砲弾が飛び交う中、皇后を守ろうとした溥儀の乳母が撃たれ、手首のない手で顔を覆った。鮮血で真っ赤に染まった顔…。乳母はやがて息絶え、遺体は放置された。そんな砲弾の中で一族を守ろうと、布団をかぶせて覆いかぶさった日本兵がいた。その日本兵が砲弾で亡くなると中国兵が同じようにかぶさって守り、命を落としたという。

 「それらの方が亡くなった上で私たちが生かされたことに感謝しております」と福永さんは振り返る。この後も数え切れない修羅場をくぐり抜けての奇跡の生還の陰には、身をていして浩や福永さんを守ろうとした大勢の日本人、中国人がいたという。

愛によって再生した一族の物語、伝えていくことが大事

 溥儀とともにソ連に抑留されていた溥傑はその後、中国の戦犯管理所に送られた後、1960年に釈放。互いを想い続けていた一家は翌年、再会を果たし、浩は生涯を北京で溥傑とともに過ごした。

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