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【戦後70年】血に染まった乳母の顔、銃弾・砲弾の嵐…西宮在住ラストエンペラー血族の回想「多くの人に守られ生かされた」

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【戦後70年】
血に染まった乳母の顔、銃弾・砲弾の嵐…西宮在住ラストエンペラー血族の回想「多くの人に守られ生かされた」

周恩来首相主催の昼食会での記念写真。前列右から溥傑、浩、周恩来、嵯峨尚子(浩の母)。福永さんは浩の左後方。左から2番目が溥儀=1961年、中国(関西学院大学博物館提供)

 ラストエンペラーとして知られる清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ、1906~67年)とともに満州で終戦を迎えた血族が兵庫県西宮市に住んでいる。溥儀の実弟である溥傑(ふけつ、1907~94年)の次女、福永●生(こせい。●=女へんに雨、その下に誇のつくりで大を取る)さん(75)。戦後70年を迎えて戦争の記憶が風化し日中関係が複雑さを増す中、「人と人との真心の交流を大事にしてほしい」と訴えている。(加納裕子)

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 福永さんは昭和15(1940)年3月、溥傑と嵯峨浩(さがひろ、1914~87年)の次女として東京で生まれた。浩は公家華族の長女で、2人の結婚は日本と満州の親善の架け橋といわれた。

 1945年8月の終戦時、5歳だった福永さんは溥儀や溥傑、浩とともに満州にいた。「みんな泣いていて、寂しいような悲しいような情景だけは覚えております」と振り返る。父親の溥傑は溥儀とともに飛行機で亡命する途中、ソ連軍が拘束。一方、母親の浩は「一族とともに皇后をお守りする」と決意して日本への帰国の誘いを断り、やがて皇后とともに中国共産党軍に捕らえられる。

 翌年1月、皇后と浩、福永さんらは中国東北部の町、通化に移送された。翌月、日本人が武装蜂起に失敗し、戦死や処刑などで千人以上が死亡したとされる「通化事件」が発生。福永さんらのいた場所も戦場となり、激しい戦闘にさらされた。

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