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【九転十起の女(38完)】歴史の彼方から再び…朝ドラはどう描く

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【九転十起の女(38完)】
歴史の彼方から再び…朝ドラはどう描く

学ぶことが好きだった。浅子は読書姿の写真を何枚か残している(日本女子大学提供)

 時は移ろう。

 広岡浅子が心血をそそいだ加島屋は、女婿の広岡恵三が全事業を統括して手腕を発揮し、浅子存命期の大正初年には大同生命の保有契約高が1億円を超すなど順調な歩みを続けた。

 しかし、昭和のはじめの金融恐慌で中核をなす加島銀行・加島信託銀行は廃業。日本銀行から多額の融資を受け、その清算のため多くの資産を整理した。恵三も神戸市東灘区の広大な私邸(現在の甲南女子大学)など多くを手放した。

 生き残った大同生命は昭和28(1953)年、信五郎の長男・松三郎が第4代社長を退任して以降は広岡家から離別する。旧家加島屋も女傑浅子も歴史の彼方に埋もれていく。

 近世経済史の宮本又次は「大阪女傑論」(「大阪文化史論」所収)で浅子を取り上げ、こう書いている。

 「明治以後町人が市民に脱皮し、商人が実業家になり、企業家になった。これまで未分化だった家業は分化するが、昔風の大阪の御寮人さん気質がまったくなくなったわけではなく、大阪のおなごのど根性に温存された。明治期の与謝野晶子も広岡浅子も住友登久も奥田ふみも吉本せいもそんな女であった」

 近代性、現代性に乏しいとも指摘している。広岡浅子はもう二度と出てこないということだろうか。

 大正8(1919)年1月14日に亡くなった浅子はこんな言葉を残している。

 「私は遺言はしない。平常言う事が皆遺言である

 東京朝日新聞は訃報(ふほう)の中でこの言葉を紹介している。

 私はもう十分生ききった。言いたいことも存分に言ってきた。その私の生きてきた道を知ってくれるならそれでいい。知らない人にまで何かを残そうとは思わない。浅子の自信、潔さ、あるいは達観がそう言わせたか。

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