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【官兵衛に見るサブリーダー論】
最後は家康を討ち天下を狙ったのか、関ケ原直前に挙兵した官兵衛の真意は?
豊臣秀吉から「天下人の器量を持つ」と恐れられた秀吉の軍師の黒田官兵衛だが、その疑いを晴らすため家督を息子・長政に譲ると隠居生活に入る。ところが秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が激化して関ケ原での天下分け目戦いが近いことを察知すると、石田に味方する九州の武将を次々と落としていった。この動きを最後のひと花とする向きもあるが、「関ケ原がもう少し続いていれば天下が取れていたかも」と周囲にもらしていたとも。軍師は一般的に天下の座に無縁とされているが、その真意のほどは?
連戦連勝
秀吉の死後、家康と三成との対立は日増しに激化するばかりで、天下を二分にした戦いがいつ起きてもおかしくない状態だった。
そんなとき会津の上杉に軍事力を増強する動きがあり、「これは天下を揺るがすもの」と家康が上杉に上洛を求めるが、上杉はこれを拒絶。この結果、家康自らが出陣して上杉を征伐することになり、慶長5(1600)年6月に大坂城を出た。
ところが、前年、家康に大坂城を追放された三成がそのすきに城に戻り、家康を背後から狙う構えを見せたため、両者の戦いは決定的となった。
一方、九州の諸将のほとんどが石田方といった状況の中、黒田家では息子の長政が徳川方に付き、官兵衛が三成の要請を断ると、三成は官兵衛の“刺客”にかつての九州の盟主・大友氏の当主、義統(よしむね)を送る。
官兵衛が中津城を発ったのは関ケ原の戦いの6日前の慶長5(1600)年9月9日。関ケ原の戦いの6日前だった。

