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【大坂の陣400年】真田幸村(下) 徳川に仕掛けた最大の〝わな〟か…敵兵誘い込んだ「真田丸」

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【大坂の陣400年】
真田幸村(下) 徳川に仕掛けた最大の〝わな〟か…敵兵誘い込んだ「真田丸」

大坂冬の陣最大の激闘といわれる「真田丸攻防戦」。幸村軍は徳川方に野次を飛ばして挑発し、なだれ込んできた大軍に銃弾と矢を浴びせた。大坂城から孤立した要塞だった真田丸に、幸村は自ら「おとり」となって敵兵をおびき寄せたとみられる

 400年前の慶長19(1614)年11月に勃発し、豊臣方と徳川方が激突した大坂冬の陣。豊臣方の知将、真田幸村が大坂城の南側に築いた出城・真田丸で最大の激闘が展開された。徳川方が失った兵数は数千とも1万以上ともいわれ、冬の陣全体の大半を占めた。徳川方を翻弄した幸村の知略とは-。 (川西健士郎)

 大坂城は三方を川や湿地帯で囲まれ、南側だけが台地続きで唯一の弱点とされていた。そこを防衛する役割を担ったのが真田丸だ。櫓や堀、三重の柵を備えた堅固な要塞(ようさい)で、城郭に詳しい滋賀県立大の中井均教授は、数で不利な状況でも攻守に効力を発揮する合理的な構造だったと説明する。

 当時の兵にとって合戦は「活躍次第で家禄がはね上がり、戦死しても戦功が認められれば子孫の代まで家の繁栄が約束される。目の前にある一攫千金のチャンス」(中井教授)だ。

 幸村軍はこうした兵の心理を利用し、野次を飛ばして挑発。吸い込まれるように堀になだれ込む徳川方の兵に銃弾と矢、落石を浴びせた。堀底は倒れた兵で埋まったという。

 真田丸に敵兵を誘い込むことが幸村の仕掛けた最大の〝わな〟だったのかもしれない。奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)によると、真田丸は大坂城から完全に孤立した要塞だったことが判明したのだ。

 豊臣期の上町台地の地形を復元した大阪歴史博物館の研究成果によると、真田丸があった場所は大坂城との間に深い谷があり、誤りと考えられていた江戸初期の実測図と一致。城からの援軍が見込めなかった。

自ら『おとり』…血祭りリスク負い、見事に勝ち切った

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