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【ベテラン記者のデイリーコラム・渡部裕明の奇人礼讃】武田信虎(下)糾える縄…信玄より長寿30年「戦国の楽天男」

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【ベテラン記者のデイリーコラム・渡部裕明の奇人礼讃】
武田信虎(下)糾える縄…信玄より長寿30年「戦国の楽天男」

 働き盛りの48歳で、息子・武田信玄によって甲斐国守の座を追われてしまった信虎(のぶとら、1494~1574年)。しかし、失意のどん底からはい上がる彼のその後を見てゆくと、人間の「再生」を考えるうえでの重要なヒントが隠れていると思う。一筋縄でいかないのが人生だが、幸福は思わぬところにあるものだ。流寓(りゅうぐう)の暮らしを楽しみ、結果として信玄より長生きした「戦国の楽天男」、信虎の後半生をたどる。

京の社交界にデビュー

 天文10(1541)年6月、甲斐を追放された信虎は、しばらくは娘婿の今川義元が治める駿河国(静岡県)で過ごした。信玄と義元の間には、信虎追放についての「了解」があったらしく、義元は駿府での信虎の生活費(隠居料)を信玄に催促している。信虎も甲斐から側室を呼び寄せ、子供まで生ませているから、それなりに日々を楽しんでいたようだ。

 しかし、直前まで戦国大名として戦いに明け暮れていた人物である。のんびりとした隠居暮らしには、やはり満足できなかったのだと思う。思い切って、旅に出ることとした。

 2年後の天文12(1543)年、京都や高野山にのぼり、その帰途、奈良見物を楽しんだことが分かっている。剃髪(ていはつ)し、「無人斎道有(どうゆう)」と名乗った。

 「前の甲斐守護が息子に追われ、出家した」という情報は、京やその周辺にもいちはやく伝わっていたらしい。本願寺第10世法主(ほっす)証如は、武田家と親しく、早速信虎にあいさつの使者を出している。追放されたとはいえ、信虎は「ご隠居」として遇されていたのだ。

 義元のつてだろう、京都にも屋敷を持つことができた。永禄元(1558)年には、後奈良天皇側近の公家、山科言継(ときつぐ)と知り合い親しく交わった。翌年には将軍・足利義輝への拝謁も果たしている。

オンリー・ワンの道…京にいる貴重な「大名」扱い

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