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【秀吉と大和の城(2)】大阪の“副都”担った「郡山城」…秀吉の命受け弟・秀長が統治、強力な寺社勢力抑え100万石規模に

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【秀吉と大和の城(2)】
大阪の“副都”担った「郡山城」…秀吉の命受け弟・秀長が統治、強力な寺社勢力抑え100万石規模に

 石仏などの使用について、山川主任は「県内に石が少なかったこともあるが、寺社勢力が弱体化したことにより、石材を使うことができたのではないか」と分析する。

 大和は当時「神国」と呼ばれるほど、東大寺や興福寺、春日神社(現在の春日大社)、多(とう)武(の)峰(みね)寺(現在の談山神社)などの勢力がひしめき合い、多くが軍事力で所領を確保。その力を背景に政治的な発言力も強かった。

 城下町の整備に尽力

 秀長は検地を実施し、興福寺の寺領を5分の1まで減らしたり、多武峰寺に武具や防具を差し出させ、城下に造営した新社殿に強引に移転させたりして、勢力を弱体化させた。

 同時に、城下町の整備にも力を注いだ。郡山城に入ると、すぐに奈良での商売を禁止し、すべて郡山で商売するよう命令を出した。城下の各町に特許状を与え、商工業を育成した。

 こうして営業権を独占した13の町は通称「箱本十三町」と呼ばれた。自治組織の箱本は、特権を示す文書を各町持ち回りで管理。町中の治安や消火、税の徴収、訴訟解決の役割などが与えられた。

 「多くの権限を住民に与える自治システムは、当時としてはかなり先駆的」と山川主任。秀長は天正19年に病死するため、郡山城には6年しか関与していないが、「今の郡山の基礎を築き、多くの功績を残した」と高く評価する。

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