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【北村理が紐解く災害列島】(7)「埋め田→梅田」「中津」地名に残された“都市の記憶”…低湿地・軟弱地盤であることを忘れるな

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【北村理が紐解く災害列島】
(7)「埋め田→梅田」「中津」地名に残された“都市の記憶”…低湿地・軟弱地盤であることを忘れるな

 鉄道開業当初は運賃も高かったため、一般庶民にとって駅は見物の対象だった。駅への経路も田んぼのあぜ道であったぐらい見晴らしの良い場所だったこともあり、現在のブリーゼタワー(旧サンケイビル)の場所にあった料亭「静観楼」で酒宴を催すかたわら、駅を見物するのが流行だったらしい。

 その後の大阪駅の隆盛は、開業から1カ月で760万人が訪れたグランフロント大阪にいたるまで、言をまたない。その勢いは北側の中津までおよび、高層ビルや高層マンションの建設が続く。

 しかしながら、梅田から中津など淀川沿岸部は古来、軟弱地盤で海抜ゼロメートル地帯であることには変わりはない。大阪府・市の予測では、水害や津波で数メートルの浸水が懸念されているし、地盤情報サイトをみると、浸水の可能性「高い」、揺れやすさ「やや大」、液状化の可能性「非常に大きい」と示される。

 『地名に隠された南海津波』(講談社プラスアルファ新書)の著者、谷川彰英氏は、「水の都・大阪」の原形は、海に突き出す「半島」のようにあった上町台地で、この限られた台地の中に「小さい坂」が多く、この「小坂(おさか)」が転じて「大坂」となり、のちに、「坂は土に還る」意味につながるなどとされ、「大阪」となったとする。

 この地名の変遷は、徳川家康の命で、大坂城代の松平忠明が豊臣家との戦で荒れた地の復興にかかって以降、八百八橋を張り巡らせて川が入り組んだ低湿地を水運によって利し、国内随一の商業都市に変貌させていったことと時を同じくした。さなかの元禄14(1701)年、冒頭で紹介した矢頭父子は浅野家のお家断絶後、にぎわい始めた梅田橋界隈に居を移し、病に侵された父を、息子は川でしじみをとって生計をたてて養った。父の死後、討ち入りの際には、付近の住民が路銀を用立てたという。

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