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【北村理が紐解く災害列島】(7)「埋め田→梅田」「中津」地名に残された“都市の記憶”…低湿地・軟弱地盤であることを忘れるな

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【北村理が紐解く災害列島】
(7)「埋め田→梅田」「中津」地名に残された“都市の記憶”…低湿地・軟弱地盤であることを忘れるな

 JR大阪駅の約700メートル南西の国道2号沿いに、赤穂浪士の矢頭教照・教兼父子がまつられている浄●(●=示へんに右)(じょうゆう)寺がある。寺のすぐ南側には小規模の商業ビルが並んでいるが、そのうちのひとつが「梅田橋ビル」。実はこのビル、現在は日本でも有数の繁華街である「梅田」の地名発祥の数少ない名残とされている。近松門左衛門の「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」に登場する「梅田橋」があった場所で、江戸時代の地図に記載されているのが、この界隈(かいわい)を「梅田」と呼んでいたことを裏付ける最初だという。

グランフロントも…いまや関西の重心「大阪駅前」=「梅田」

 現在の大阪駅周辺は、豊臣秀吉のころは大坂の北の外れだった。淀川のすぐ南にあたるこの地域は海抜ゼロメートルの低地でたびたび川が氾濫した。梅田の北に隣接する「中津」が淀川の支流だった中津川のあった跡であることも、現在の大阪駅周辺が近代に至るまで低湿地であったことを示している。

 この低湿地を埋めて田畑にしたところから「埋め田」と呼ばれ、のちに、めでたい佳字(けいじ)「梅」に変えられたのではないかというのが、「梅田」という地名の由来の定説になっている。

 梅田は江戸時代、すぐ南にある堂島で米取引が盛んになって以降、「梅田橋」がかかっていた「しじみ川」の沿岸部が全国から集まる商人らの遊所となって開け、それが東へ伸びて曽根崎新地へとつながった。

 そして、明治7(1874)年、大阪-神戸間の鉄道開業に伴い、初代の大阪駅「梅田のステンショ(ステーション=駅)」が堂島から「梅田橋」を北へ渡った、現在の大阪駅より数百メートル西方に建設された。周辺にはまだ民家が少なく田畑が広がっていたが、当時は蒸気機関車であったため、木造家屋が密集する地では火災が心配された。また、京都への鉄道延伸計画もあり、神戸から京都への中継駅として大きな敷地が必要だった。このため、初代大阪駅は田畑の真ん中に造られることになったのだ。

古来、海抜0m地帯…上町台地に囲まれた湾

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