硫黄島からの手紙 五輪に描く父の姿 - 産経ニュース

硫黄島からの手紙 五輪に描く父の姿

父、達吾さんが母、輝子さんにあてた手紙を読む河石達雄さん=兵庫県尼崎市
ロス五輪の100メートル自由形決勝で2位に入り、笑顔を見せる河石達吾さん(河石達雄さん提供)
 第二次大戦の激戦地、硫黄(いおう)島(東京都)から届いた6通の手紙がある。差出人は、1932年に開かれた米ロサンゼルス五輪の競泳男子100メートル自由形の銀メダリスト、河石(かわいし)達吾。身重の妻を残して出征した男が記した文面からは、まだ見ぬ息子への愛情があふれていた。15日は74回目の「終戦の日」。息子は33歳で戦死した父の年齢をはるかに超えた。2020年東京五輪を控えて徐々に盛り上がる熱気のなかで、息子は若かりしころの父の姿を思い描こうとしている。(江森梓)
 《其後は如何(いかが)。達雄も元気でないて居(い)ますか。(略)達雄は宝であると同時に生まれたと言ふそのことだけで随分(ずいぶん)親爺(おやじ)にあれこれ考へさせ楽しませて呉(く)れる。有り難いことだ。達雄万々歳だ》
 昭和19年12月30日、硫黄島にいた河石が神戸で暮らす妻、輝子さん(1917~91年)へあてた手紙だ。
 「おやじも親ばかなところがあったんだなあ」。河石の長男、達雄さん(74)=兵庫県尼崎市=は色あせた便箋(びんせん)を見ながら静かに笑う。
 河石は身重だった輝子さんを残して出征。手紙が書かれた約3週間前に一人息子の達雄さんが誕生した。大戦末期、硫黄島では米軍を迎え撃つ準備を進め、緊張感に包まれていたさなか。手紙にはそうした様子は全く記されず、輝子さんと達雄さんを気づかう内容ばかりだった。
 輝子さんも複数回にわたり、硫黄島の夫へ手紙をしたためていた。20年2月にはこう夫をおもんぱかった。
 《どうかゝ一日も早く御無事で御還り下さいますやうにとそればかり祈り願ってゐます。達雄も父ちゃんが側に居て下すったらどんなに幸福でせう》
 同月中旬、米軍が硫黄島に上陸。輝子さんのこの手紙は、「あて先不明」として返送されてきた。
 平成3年に輝子さんが亡くなり、達雄さんが遺品を整理していた際にこれらを見つけた。河石からの手紙が6通、輝子さんの手紙は1通で封は切られておらず、中には、生まれたばかりの達雄さんの写真が同封されていた。
 「思慮深く、物静かな人だった」。達雄さんは生前の河石を知る人たちからこう聞いたが、手紙から読み取れるのは、わが子の誕生を喜び、会える日を心待ちにしていた普通の父親だった。
 《達雄が3歳になったら泳がせよう》。河石はこんなことも手紙に書いていたという。戦後の混乱期でその望みはかなわなかったが、達雄さんの長男、進吾さん(41)が生まれてからは、祖母となった輝子さんが目を細めながら幼い孫を水泳教室へ送り迎えした。
 戦後、女手一つで育ててくれた輝子さんのおかげで、達雄さんは父がいないことに寂しさを感じることはなかった。ただ、社会人となった進吾さんから父親としての意見を求められたとき、「おやじだったらこう言うだろうか」と考えながら話す。
 来年には、東京五輪が開かれる。87年前に五輪の舞台に立った父。「そういえば一つだけ、おやじに聞いてみたかったことがある」と、達雄さんはつぶやいた。「表彰台に立って日の丸が掲揚されたあのとき、どんな気持ちだったのかなって。メダリストの息子に生まれるなんて、なかなかないことですから」
 河石達吾(1911~45年) 広島県大柿村(現・江田島市)出身。慶応義塾大在籍中にロサンゼルス五輪競泳男子100メートル自由形に出場して銀メダルを獲得した。大学卒業後は大同電力(現関西電力など)に勤務。昭和18年に輝子さんと結婚したが、19年に出征。20年3月17日に硫黄島で戦死した。放映中のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」にも登場するロス五輪メダリストの宮崎康二、小池礼三らは河石の人柄を慕って慶応大に入り、同大学水泳部に黄金時代をもたらした。