竹林の隠者・富士正晴(8)茨木市の竹やぶ“不透明”執筆でも達観 ジャーナリズム視点「桂春団治」

石野伸子の読み直し浪花女
桂春団治の伝記を書き始めたころ。自宅の庭でインタビューに答える49歳の富士正晴 =大阪府茨木市

 大阪・茨木市安威の竹やぶに囲まれた農家風の家に、富士正晴(ふじ・まさはる)は38歳のとき引っ越した。以来、73歳で亡くなるまで35年をここで過ごした。

 とりわけ、50代半ばはこの竹やぶにひきこもる日々が続く。

 といっても、世間と断絶したわけではない。「VIKING」( http://viking1947.com/ )は変わらず続けて仲間はひきもきらず訪ねてきたし、その後も多彩な執筆活動も続けている。

 芸人ものも数多く手掛けた。ひょんなことから桂春団治について書くことになり、以後上方芸人への聞き書きなどの仕事が広がる。とりわけ桂春団治については、綿密な戸籍調べから弟子など関係者らへの聞き取りを続け、奇行が多く伝説の多い天才落語家の進取の気質や弟子をいたわる優しさなどを掘り下げて大作「桂春団治」にまとめあげた。これは昭和43年、毎日出版文化賞を受賞している。

 ジャーナリズムの仕事も多かった富士の面目躍如か。一方、書斎から観察した自然や自己を戯画化したエッセーなども書いた。竹林にこもっていても、世間は見えるのだ。

 「悟りなどを開こうと思って坐っているわけではない。あぐらであって、座禅ではない」(『坐っている』)

 自分が求める文学とは何か。

 「わたしの戦後」にそのヒントがユニークな表現で語られている。

 戦前、富士はフランス文学を好んで読んだ。文学上の師匠、竹内勝太郎はフランス遊学の経験があり、マラルメ、ヴァレリーの影響を受けた詩人だからその影響もあったかもしれないが、戦後はアメリカ文学を多く読むようになったという。

 ところが「アメリカ文学に出て来る人間はどうもフランス文学に出て来る人間より、背が高いみたいに見える(肉体的にである)ということを感じ、次にイギリス文学をよみはじめ、その一種の鈍重さ、一種不透明なところに魅せられた」という。

 富士が昭和24(1949)年に発表した初めての小説「小ヴィヨン」は、イギリスの小説家ヴァージニア・ウルフの作品「オーランド」を読んで刺激され一気に書きあげたものだ。

 「オーランド」は性も時代も超えた詩人の伝記風小説だが、「小ヴィヨン」は「VIKING」の同人でもあった美貌の少年・斎田昭吉をモデルにし、敗戦後の闇市に出没する不良少年らが描かれている。

 イギリス文学はちょっと不透明、そこに魅力を感じると富士はいう。

 「うまく言えるとは思えないが、思想の電気の良導体みたいなものから、ところどころ電気を通さぬところのあるような不純度の高いごろりとしたものに魅力を感じるようになって来たといってもいい」

 その点、日本の小説はことに具合が悪いような気がしてならぬ。そんな思いを抱えたのも「わたしの一つの戦後なのだろう」とも書く。そして、「VIKING」の同人たちが、いまもひとつの方向性として口にすることの多い富士正晴の文学観がこう語られる。

 「ごつごつしたもの、硬いもの、厄介なもの、ザラザラしたものにわたしはますますあこがれて行くもののようだ」(『わたしの戦後』)

 富士は詩人として出発し、晩年まで折々に詩を書いた。

 元VIKING同人で仏文学者の杉本秀太郎は「富士正晴作品集二」の解説で、晩年の富士正晴の心境をつづった詩として「小信」を挙げている。昭和54年「富士正晴詩集」に収められた作品だ。

 隠者と ひとはいいますなあ

 陰々滅々でありますな 笑っておりますな

 ひとは のんきそうだといいます

 黙っておれば 腸が七つ折り

 喋れば 胃がむかつきますなあ

 書くこと一切気に入らず

 読むこと一切苦患なり

 先行き 茫々 人生 漠々

 人類の象徴は はばかりながら わしでっせ

 以後の富士正晴の生と認識は、この「小信」が伝えるとおりだったと、杉本秀太郎はいう。この達観。

 隠者の眼は、いつの時代にも求められているのではないだろうか。   =この項おわり

▼同人誌 VIKING 公式ホームページ(外部サイト:http://viking1947.com/ )

石野伸子

産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。

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