北の大地走り“義経”として都へ 京都鉄道博物館(京都市下京区)の「SL7105号機」

文化遺産は語る(2)
「義経」とされる蒸気機関車7100形7105号機。1番機の証である車両前面の「1」は昭和27年に復元された=京都市下京区

 平成26年に閉館した大阪の交通科学博物館に展示されていた、米国製の蒸気機関車(SL)「7100形7105号機」。現在は京都鉄道博物館(京都市下京区)の扇形車庫にあり、久しぶりの再会を果たした。デゴイチ(D51)やシゴナナ(C57)など、雄々しい面々と比べれば体は小さいが、存在感は相変わらず際立っていた。

 それは、華やかな容姿のせいだろう。先端の障害物よけ「カウキャッチャー」は大きく、煙突の先はそろばんの珠のような形をしている。西部開拓期の米国製SLの特徴を今に伝える車両は、機械的な美しさと芸術性を兼ね備えた、工芸品のようなたたずまいだ。

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 7105号機は「義経」という名でも紹介される。義経号は開拓途上の明治期の北海道に、石炭輸送のため初めて敷かれた鉄道を走ったSLの1番機だが、数奇な歴史を歩んだ。

 経緯は、日本国有鉄道鷹取工場庶務課が昭和43(1968)年にまとめた『機関車義経号』に詳しい。

 義経号は明治13(1880)年、同形の2番機「弁慶」とともに輸入された。翌年、行幸(ぎょうこう)中の明治天皇を乗せた列車を牽引。その功績から大正11(1922)年の日本の鉄道開通50周年を機に、東京の鉄道博物館で展示計画が浮上する。

 車両は翌年、北海道を離れたが関東大震災が発生。10年以上も道中で足止めとなった後、埼玉の工場に入るが、鉄道ファンの指摘をきっかけに昭和11(1936)年、この車両は「別人」と分かる。車体に残る製造順に振られた番号を調べたところ、義経号と同年に製造、輸入された弁慶号と取り違えていたことが判明したのだ。

 本当の義経号はどこへ行ったのか。大正12(1923)年、廃車後に堺の車両工場に払い下げられ、車両の入れ替え用に使われていた。戦後、義経号の保存を求める声の高まりを受け、昭和27(1952)年、国鉄に引き取られた。

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 義経号は原型を留めないほど改造されており、国鉄は鷹取工場(神戸市)で修復。往事の姿を取り戻す。すると、西部劇に登場するような容姿は話題を呼び、各地のイベントに遠征。平成2(1990)年、大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」では会場内を客車を牽引して走行、77万人が乗り、大人気を博した。

 その後は大阪の交通科学博物館を経て、京都鉄道博物館へ。源義経とのゆかりも深い京都で余生を送るとは、なんという奇縁だろう…と、美しく結べない逸話があるから悩ましい。

 実は義経号の修復の際、1884年製の5番機「信広」の製造番号が刻印された部品が、複数確認された。義経号の製造番号が残る部品は、それらしい数字が読み取れる1点しかなかった。

 義経号の保守過程で、信広号の部品が使われたのではないか-などと考えられた中、鷹取工場長だった金沢寿人氏は、昭和35年の手記で否定的な見解を示した上で、真の義経号は四国に渡り、戦後すぐに解体されたとの説があったことを明かす。そして悩みぬいた末に「独断で義経と命名」したのだという。

 ただ、金沢氏は「義経をいたずらに偽物扱いされても困る」とし「今日日本の大形(おおがた)機のモデルとして、技術的にも価値ある」と訴える。義経という“大名跡”を受け継ぐ7105号機の歴史的な価値は尊い。

(渡部圭介)

 【用語解説】7100形7105号機 米ピッツバーグにあったH・K・ポーター社製の蒸気機関車(SL)で、全長約12メートル、高さ約3・4メートル。同形のSLは計8両が輸入され、京都鉄道博物館の義経号以外では、義経号と取り違えられた弁慶号(7101号機)がさいたま市の鉄道博物館に、しづか号(7106号機)が北海道の小樽市総合博物館に現存する。