生誕1350年、カリスマ僧侶・行基 民衆の信頼を集めた「行動する宗教者」

関西の議論
喜光寺に安置されている行基菩薩坐像

 国内宗教史上の「スーパースター」といえば、空海や最澄、親鸞(しんらん)らを思い浮かべる人が多いだろう。一方で、民衆から絶大な信頼を寄せられながら、その活躍ぶりが意外と知られていない奈良時代のカリスマ僧侶がいる。「菩薩(ぼさつ)」と崇(あが)められ、今年生誕1350年を迎えた行基(ぎょうき)(668~749年)だ。布教やインフラ整備に力を尽くしつつ、国家の一大プロジェクトだった東大寺大仏の造立にも貢献。名僧を駆り立てたものはなんだったのか。(岩口利一)

飢え、病に苦しむ民衆

 鴟尾(しび)が輝き、朱色の柱が鮮やかな平城宮跡(奈良市)の朱雀(すざく)門。南へ延びる広場のような空間は奈良時代、日本の首都だった平城京を南北に貫いた朱雀大路跡の一部だ。道幅はなんと約74メートル。壮大な通りだった。

 平城京は東西約6キロ(外京(げきょう)含む)、南北約5キロに及び、「条坊」と呼ばれる碁盤目状の区画に住宅や寺院が建ち並んだ。唐・長安を模し、外観が重視されたという都の姿や、遣唐使の派遣からは当時の国の勢いがうかがえるが、民衆の暮らしはどうだったのか。

 平城京の人口は推定5~10万人。貴族が暮らす一方、都の造営などに従事する地方出身者も多く、貧富の差は大きかった。

 「続日本紀」には〈諸国の役民が郷里に帰る日に食糧が欠乏し、多く帰路で飢えて、溝や谷に転落し、埋もれ死んでいるといったことが少なくない〉などと記されている。貧しさに加えて重い労役が課され、各地で疫病も流行。民衆はあえいだ。

 行基が登場したのはそんな時代だった。

千人集めたカリスマ

 行基は天智7(668)年、現在の堺市で誕生。法興寺(飛鳥寺、明日香村)で学び、山林で修行に励んだとされる。その後、民間布教を繰り広げ、畿内各地に数多くの寺院や池、橋を整備。飢えた役民らを宿泊させ、食事を与える「布施屋(ふせや)」も設けた。こうした土木事業は言うまでもなく、集団の力がなければ実現できなかった。「続日本紀」にはこんな記述がある。

〈和尚の評判が伝わっている処の人々は、すべてやって来て仕事に協力したので、日ならずして完成した〉

 行基が晩年を過ごした喜光寺(奈良市、菅原寺)の山田法胤(ほういん)住職(薬師寺長老)は、「行基さんは(修験道開祖とされる)役行者(えんのぎょうじゃ)のように山林で修行し、呪術(じゅじゅつ)師を思わせる神秘的なカリスマ性があったのだろう。地質的な事情に通じていた気配もある」と推測。そんな行基に多くの人が惹(ひ)かれたとみられ、山田住職は「みんなに呼びかけ、一つのものを一緒に作り上げようという意識があったのではないか」と考える。

 事業に従事した行基の知識集団は、弟子や信者、技術者ら千人程度にも上ったといい、政府も無視できないほど大きな力を持っていたとみられる。

迷いの果てに

 それにしても行基はなぜ、寺院内で勤めるのではなく、これほどまでに社会の中に深く入り、民衆救済の活動を展開したのか。

 大阪教育大名誉教授で堺行基の会会長でもある吉田靖雄氏は、「若い頃に飛鳥寺に入ってどう生きるべきか考え、中国の坊さんの伝記を探した。そんな中、三階(さんがい)宗の教えがヒントになったのでは」と指摘する。

 三階宗は民衆の中に入って、身なり、住居を構わずに仏教を説き聞かせることを志す。行基は他の多くの僧と同様に山林修行に励んだが、この行は自らが悟ることを目的にする性格を帯びているため、三階宗の教えに惹かれていったと推測する。

 しかし、僧は当時、寺院に住むことが義務づけられており、民間布教活動などは法令で制限されていた。

 「当時の坊さんは官寺で修行し、役職に就いた。天皇の病気が回復するよう経を唱える役など出世の段階がいくつもあり、そうしたルートに乗ろうと寺で勉強した。民間布教に出るのはそれから外れることを意味したので、行基さんは迷ったはずだ」と吉田氏はいう。当時、僧の世界も家族単位ではなく一族で動き、余得にあずかろうともくろむ人たちが多数いたことが背景にある。

 行基は49歳の頃、ようやく一大決心をする。

 「坊さんとしての出世を諦め、他人のために生きることが自分のためになるという現代のボランティア活動にも通じる考え方で進もうと決めた。それからは真一文字に民衆のために突き進んだ」(吉田氏)

大仏造立に貢献

 行基は民間布教に努めていた頃、〈みだりに罪福を説き、(中略)農民を妖惑している〉などとして、天皇から活動を糾弾される。

 それでも行基が率いる集団は各地で寺院を建立し、国はやがて活動を公認化。民衆の信望を得ながら土木事業を進める行基に対し、国は方針を180度転換する。聖武天皇は天平15(743)年、大仏造立の詔(みことのり)を発布すると、76歳になっていた行基を(教えを説き寄付を募る)勧進(かんじん)役に抜擢(ばってき)したのである。

 〈一枝の草、一握りの土でもささげて造仏を助けようと願う者があれば、欲するままに許そう〉

 聖武天皇は大仏造立に際し、こう呼びかけたが、その姿勢は知識集団を形成した行基の手法と似通っていた。行基自身も数日後、勧進を始めたというが、弟子の真成が師の死後に記した『大僧正舎利瓶記(だいそうじょうしゃりへいき)』では、どういうわけか行基の大仏造立への貢献に触れていない。

 吉田氏はこれについて「大仏造立には反対派も賛成派もいたが、真成はそれが国民の負担になると思い、評価しなかったのだろう。行基は多くの弟子の将来を考え、勧進を進めたのではないか」と考える。

 実際に行基の死後、天皇の希望に添う行動だったと評価され、弟子たちは「十禅師」(宮中に仕えた10人の僧)と呼ばれる名誉ある地位に就いたという。

「最後に悟る人」

 貧苦にあえぐ民衆、そして大仏造立にも尽くした行基が生誕し、今年で1350年。これを記念し、5月に平城宮跡歴史公園(奈良市)で開かれた行基に関するシンポジウムでは、専門家が宗教や技術的な見地から行基の多様な姿を浮き彫りにした。

 西大寺清浄院住職で種智院大教授の佐伯俊源氏は、行基が仏(如来)になる前の存在である「菩薩」と呼ばれたことに着目し、「菩薩は他者を悟りに導き、自らは最後に悟る人」と解説。「行基は常に火事場にいて、この世で苦しんでいる人を救済した。そうした菩薩の仏教をこの南都で受け継がねば」と語った。

 民衆に寄り添った「行動する宗教者」の遺志は、鎌倉時代に西大寺(奈良市)を中興した叡尊(えいそん)やハンセン病患者を救済した忍性(にんしょう)らによって受け継がれた。現代も多くの人の心を捉え、10月20日には奈良公園で「行基さん大感謝祭」と銘打ったイベントが開催される予定。その姿に手を合わせる人は、千数百年の時を経ても絶えることはない。