有力資料なら1000万円 和歌山・新宮城復元に高額懸賞金

関西の議論
石垣が美しい新宮城跡。熊野灘も見渡せる(新宮市提供)

 熊野三山の一つ、熊野速玉大社の門前町として発展した和歌山県新宮市は、かつての紀州藩新宮領の城下町でもある。熊野灘に注ぐ熊野川河口に近い小高い丘に築かれた新宮城は明治の廃城令で取り壊され、今は石垣が残るのみ。市は城の復元に向けた資料の収集に取り組んできたが、これまで有力な資料は見つかっていない。そこで、この秋にも復元を可能とする資料の提供者に対し懸賞金を出す事業を開始する。金額は天守に関する資料なら1千万円。復元計画は進展するか。(中村宏二)

美しい「切込み接(は)ぎ」

 新宮城は、紀州藩主・浅野幸長に仕えた浅野忠吉が元和(げんな)5(1619)年に築城。その後、紀州藩主となった徳川頼宣の付家老で新宮領主の水野重仲が築城を継続し、寛永10(1633)年、2代・重良の時に完成した。現在は石垣が残るだけだが、整えた石を隙間なく積み上げる「切込み接ぎ」の石垣の美しさから、日本城郭協会が選定した「続日本100名城」にも選ばれている。

 特徴的なのは熊野川に面した「水ノ手」。「炭納屋(すみなや)」とみられる建物跡群が平成6年に発掘され、備長炭の専売をしていた水野家が、軍事施設である城を経済的な拠点としたことを示す重要な発見と注目された。

 小高い丘にある城跡は、適度な散策にはうってつけ。少々マニアックな視点で、石材を切り割りする際にクサビを打ち込むための「矢穴」がある石や、刻印石を探すのも楽しい。

 それだけに、全盛時の城をぜひ復元したいというのが新宮市関係者らの切なる願いだ。

天守には1千万円

 「これまでのところ、有力な情報は寄せられていません」。5月15日、新宮市役所で開催された田岡実千年(みちとし)市長の諮問機関「新宮城復元対策委員会」の第1回会合。城の復元に伴う資料収集の調査状況について、改めて説明があった。

 「国立国会図書館」「国立公文書館」「国文学研究資料館」「国立歴史民俗博物館」…。主な調査先14カ所が一覧で示されたが、これまでに「有力資料を発見」という情報はない。

 対策委は、「新宮城跡に関する復元調査委員会」が28年2月に懸賞事業を実施するよう答申したことを受け、具体的な実施方法などを検討するため設置され、今秋には中間答申を出す予定だ。

 調査委の答申によると、新宮城の復元根拠となる古写真や設計図などを対象に懸賞金を出し、金額は天守の資料なら1千万円、大手門は500万円、櫓(やぐら)は200万円。対策委には、市が30年度から3年間で計1700万円の債務負担行為を設定したことが示され、11月ごろには懸賞金事業をスタートさせる。

懸賞金は民間先行

 新宮城の復元に向けた懸賞金の事業は、これが初めてではない。市側の取り組みよりも前に、地元の若手経営者らでつくる「熊野地域経済研究会」が28年から1年間、総額250万円という懸賞金を設定し、英語も駆使した動画のネット配信などで“資料発掘”に取り組んだ経緯がある。

 同研究会会長で今回の対策委委員の一人でもある三崎一彰さん(43)は「行政が資料を探していることは広く知られていなかった。知ってもらうのが第一歩と考え、スピード感を持って行動した」と話すが、結果は「脈のあるものはなかった」という。

 「250万円という額が少なかったという思いもある。今回、市が予定している(天守の有力資料に対する懸賞金)1千万円なら『探してみようか』という人も出てくるかもしれない」。三崎さんは期待する。

高いハードル

 それにしても、どんな天守だったのか。江戸時代、幕府が諸藩に命じて作成させた城郭と城下町の絵図「正保城絵図」の「紀伊国新宮城之図」には、天守台の石垣の高さ(5間=約9メートル)や広さ(8間×7間=約180平方メートル)が記されているが、天守は描かれていない。他に3層の天守が描かれた絵図などが残るものの、明確な「容姿」は不明だ。

 国の史跡である新宮城跡で歴史的建造物などを復元するには、根拠として設計図などの詳細な図面や写真などの資料が不可欠。それも「精度が高く、良質なもの」が求められる。

 対策委では「最も(発見される)可能性があるのは外国に残る写真では」という意見も。江戸末期から明治にかけて来日した外国人が撮影した新宮城の写真が存在する可能性も期待され、懸賞事業をどのように世界に向けて発信するのかも問われるところだ。

 「城の復元は、市のシンボルとして市民に夢と希望を与え、観光振興の起爆剤にもなる壮大なプロジェクト」と田岡市長。復元への“第一歩”となる情報提供が待たれる。