【関西の議論】大阪の篤志家2億7千万円投じ郷土・三重の寺復興、7代前の先祖も用水築く - 産経ニュース

【関西の議論】大阪の篤志家2億7千万円投じ郷土・三重の寺復興、7代前の先祖も用水築く

再建工事に入る前の仁王門。解体に伴う調査で宝永3(1706)年に完成したことが判明した=三重県多気町丹生の丹生山神宮寺
生まれ育った三重県多気町丹生の寺社修復に私財を投じ続けてきた西村彦蔵さん=大阪市平野区
「立梅用水」建設事業の中心となった西村彦左衛門の肖像画(西村家所蔵)
 弘法大師・空海が伽藍(がらん)を造営した伝承がある丹生山(にうさん)神宮寺(三重県多気(たき)町丹生)のシンボル「仁王門」の老朽化に伴う再建工事が、大阪の篤志家が支出する2億7千万円を原資に進められている。篤志家は江戸時代、長大な農業用水を築き、村の窮乏を救った郷土の偉人、西村彦左衛門(ひこざえもん)の7代子孫。神宮寺以外の寺社や墓の修復にも莫大(ばくだい)な私財を投じており、地域から「平成の彦左衛門さん」と慕われているという。
 ■村を救った先祖
 仁王門の再建費用を出資したのは、神宮寺門前で生まれ育った大阪市平野区の西村彦蔵さん(76)。20代半ばの昭和41年、コピー機などの部品を作る精密板金会社、西村加工所(現・西村製作所)を創立、経営を続けている。
 「故郷のため一肌脱ごうと決めたのは、立派なご先祖の彦左衛門さんにならいたいとの思いからです」
 西村彦左衛門は、丹生村で酒屋を営み、江戸時代後期に農業用水「立梅(たちばい)用水」を敷設したとされる。丹生村は、伊勢参宮の土産物にされた化粧品「伊勢白粉(おしろい)」などの原料になった鉱物の辰砂(しんしゃ)(水銀、丹)の産地として中世をピークに繁栄したが、彦左衛門の時代は産出量の激減ですっかり衰退していた。
 文化5(1808)年、彦左衛門は、出稼ぎなどで生計を立てる農民を救うには新田開発より他に方法がないと、農業用水の新設を立案。私財を投じるとともに当時、丹生を治めていた紀州藩への嘆願で協力を得て、文政6(1823)年に完成した。用水路は、櫛田(くしだ)川に造られた井堰(いせき)から延長30キロに及び、現在も436ヘクタールの受益面積があるという。
 西村さんは十数年前、彦左衛門も暮らした自身の生家の整備などを始めた。その後もたびたび故郷に足を運び、寺社や墓の修復などに出資。幼少の頃から見上げて育った仁王門への出資については、「瓦屋根が落ちるなど老朽化が激しい。彦左衛門さんと同じように、丹生が栄えるきっかけになればうれしい」と語る。仁王門は多くの部材が取り替えられ、修復後の仁王像2体と多聞天、持国天を門内に戻し、来年10月に落慶法要が行われる予定だ。
 仁王門を含め、これまでに西村さんが投じた私財は10億円ほどに上っているという。
 ■調査で造営状況も明らかに
 仁王門はこれまで、擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた年号から享保(きょうほう)2(1717)年建立とされてきた。しかし、解体に伴う調査で、屋根の骨組みを構成する棟束(むなづか)から多数の墨書が発見。元禄4(1691)年に建立が発願され、宝永3(1706)年に完成したことが判明した。
 また、梁(はり)の上で荷重を支える蟇股(かえるまた)にはめ込まれた彫刻の裏には、京都五条の彫物師、九山新之烝(くやま・しんのじょう)が享保10(1725)年に調整したことを示す銘が墨書されていた。新之烝は、法隆寺(奈良県斑鳩町)や専修(せんじゅ)寺(三重県津市)の国宝社殿の彫刻を手掛けたことでも知られる職人だ。ほかにも、伊勢市の大工が格(ごう)天井を、鬼瓦を丹生の瓦職人が手がけたことなどが銘文から明らかにされた。
 三重県文化財保護課有形文化財班長の伊藤裕偉(ひろひと)氏は「これまでに知られていない造営にかかる状況が判明した。思っていた以上の人脈や情報のネットワークが明らかになり、水銀で栄えた丹生の底力を感じさせる」と話す。
 ■援助なければ修復は不可能だった!!
 「少なくとも県指定には十分匹敵する」
 解体中に仁王門を調べた建築史の専門家はこう語った。価値が認められ、県指定になっていれば、県の指導や補助を得て、より多くの部材を生かす再建の可能性も考えられたという。国指定(国宝、重要文化財)では補助の上限はなく50%を国が負担。都道府県の指定は自治体により異なるが、三重県は国と同様の負担をする制度をとっている。
 多気町の規定では、町指定文化財修復の補助金は上限が50万円。篤志家の援助がなければ、修復は事実上不可能だった。
 ■「彦左衛門のDNAのなせる技」
 神宮寺は、今回の再建について、文化財保護ありきではないと考えている。寺の関係者は「丹生の玄関、シンボルとして、地域の皆さんがこれから何百年も見上げることができるよう、自分たちの手で仁王門を修復したいという思いを、神宮寺として大事にしたい」と話す。
 神宮寺では仁王門のほか、本堂、大師堂、護摩堂、客殿が町文化財に指定され、研究者や行政の文化財担当者らは解体で得られた知見を基に、文化的価値の見直しを始めている。
 地元の丹生大師奉賛会会長、川原平生(ひらお)さん(71)は「先祖がまつられている寺社の復興は地元の悲願だが、300軒ほどに減った小さな集落ではできない。私財をなげうってこられた西村さんの篤行は、彦左衛門のDNAがなせる技としか思えない。子孫たちも末永く恩恵を享受できることがうれしい」などと話している。
     (川西健士郎)
【用語解説】丹生山神宮寺 「丹生大師」の通称で親しまれる。正式名称は「女人高野(にょにんこうや)丹生山神宮寺成就院」。縁起によると、空海の師匠、勤操(ごんそう)大徳によって開山され、弘仁4(813)年に伊勢神宮参拝途中の空海が七堂伽藍(しちどうがらん)を整備した。近くにある水銀鉱床は縄文時代から採掘され、中世には全国から商人や鉱夫が集まり、「丹生千軒」と呼ばれる繁栄をみせたとされる。現在残る神宮寺の伽藍の多くは、江戸時代前~中期に建造され、隆盛の名残を伝えている。