梶井基次郎「檸檬の伝説」(7)折口信夫、阪田寛夫、大谷晃一…文学者を支え影響、知的ハイカラ女性の夢

石野伸子の読み直し浪花女
兄一家のもとで療養していた昭和6年1月、兄謙一が撮影した1枚(日本近代文学館蔵)

 平成11(1999)年に新しく編集し直された筑摩書房の「梶井基次郎全集」の編集にも携わった日本近代文学研究者の鈴木貞美さん(70)は、梶井の母、ひさに「大阪の女を見る」という。どういうことか。

 ひさは女好きで家庭を顧みない夫で苦労したが、子供たちはみんなりっぱに育てあげた。明治の新しい女子教育にふれ、一時期幼稚園の保母をしながら共働きをした。新しい女性だ。この「知的でハイカラな女性」がこの時期、大阪の文学者を支えた事実は大変興味深いと鈴木さんはいうのだ。

 鈴木さんは昨年、「『死者の書』の謎 折口信夫とその時代」を上程しているが、この折口も「知的でハイカラな叔母の支援を受けている」という。

 「日本の近代化の流れの中で、青鞜など新しい女をめざす動きが登場するが、大阪という都会は東京と違い新しい女を受け入れる土壌がなかった。自分では果たせなかった夢を、大阪の女性たちは息子や親族などに託した。そこから独自の面白い文学者を生んでいる」

 興味深い指摘だ。

 基次郎の母、ひさは、苦しい家計の中から、羊羹は駿河屋、体をふくときはフランス製のオーデコロン。息子の一流好みを出来る限り叶えてやった。それこそが、清貧の中にあっても「高潔で俗に落ちない」梶井文学を支えたのではないか、というのだ。

 さて、最後につけたし。

 梶井家には3人の息子があり、ひさはいずれもりっぱに育てあげた。その一コマを、童謡「サッちゃん」の作詞で知られる作家の阪田寛夫が「吉野通」という印象深い短編につづっている。昭和63(1988)年、梶井の死から半世紀後の文章だ。

 阪田寛夫は、梶井の実家があった場所から500メートルほど離れた帝塚山で生まれ育っている。一帯は大阪南部の住宅地だが、片や帝塚山は大阪屈指の高級住宅地。一方、梶井家があった吉野通りのあたりは「南北に走るせまい裏通りで、一帯ではただ一つの盛り場。中学時代の私(阪田)にとっては暗い匂いのする一画であった」(『吉野通』)。

 阪田には優等生の兄がおり、その兄は中学時代、ラジオの組み立てに熱中していた。その兄が個人的に技術指導を受けるために通ったラジオ屋がある。それが吉野通りにある梶井ラジオ店。それと知って、「サッちゃん」の作者は興奮する。それは高名な小説家の梶井基次郎の実家ではないか。

 兄によれば、梶井ラジオ店は梶井勇氏が経営。なかなかラジオに関する新しい技術を知る人はなく、1人弟子入りする形で毎日のように長屋にある狭いラジオ店に上がり込んで配線図の見方を習っていたという。

 しかも、それが昭和6(1931)年か7年ごろ、と聞いてさらに阪田は興奮する。とすれば、そのラジオ屋の2階には、闘病中の梶井基次郎がいたのではないか。

 兄はむろんそのラジオ店が、その後有名になった梶井基次郎の実家とは知らなかった。それよりも当時その世界では梶井家の長兄・謙一氏の名前が有名で、「無線と実験」という雑誌にも署名記事を書いていた。謙一は大阪の名門・北野から大阪高等工業学校(現大阪大学)に進学。末弟も京都大学出身で、梶井家は近所でも有名なインテリ家族だったのだ。

 そんな梶井ファミリーの逸話を知り、好奇心旺盛な阪田寛夫は「吉野通」界隈(かいわい)を久しぶりに歩いてみる。すでに基次郎が生きていたころから50年以上たった界隈にラジオ店のあとはまったくなかったが、狭い路地を行きつ戻りつしていると、「交尾」に描かれたようなわびしい大阪の路地が胸に迫ってくる。

 そんなとき、兄から新しい情報が入る。「そういえば、オートバイがあったぞ」。勇氏は当時としては珍しい「コベントリイ・イーグル」という高級車を持っていた。そこから、「サッちゃん」の作者の探究はさらに速度を増す。

 大谷晃一の評伝を読み直すと、梶井の絶筆「のんきな患者」はなかなか完成せず、できた原稿は弟の勇がオートバイで郵便局に運び、航空便で東京の出版社に送ったとある。ああ、あのオートバイではないか。

 「風防眼鏡をつけた梶井勇氏が、深夜の大阪の十三間道路、阿倍野筋から天王寺駅前、恵比須町から日本橋筋、堺筋、土佐堀河畔を中之島へと吹っ飛んで行く姿に拍手を送りたかった」(『吉野通』)

 基次郎はその5カ月後に31年の短い生涯を終えている。   =この項おわり

石野伸子

産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。

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