【関西経営者列伝】「深海魚のような会社」機敏に斬新に タマノイ酢・播野勤社長(1) - 産経ニュース

【関西経営者列伝】「深海魚のような会社」機敏に斬新に タマノイ酢・播野勤社長(1)

タマノイ酢本社内に備え付けられたキッチンを紹介する播野勤社長=昨年11月、大阪府堺市堺区(奥清博撮影)
小学校の運動会で、赤組の主将として優勝カップを手にした播野勤さん=昭和40年
 大陸からもたらされた酢の製法の伝来地とされる大阪・堺で歴史を重ねてきたタマノイ酢(堺市堺区)。老舗企業でありながら、柔軟な発想で「すしのこ」や「はちみつ黒酢ダイエット」などのアイデアあふれるヒット商品を世に送り出してきた。社長就任から26年あまり。播野勤さん(64)は、社員の創意工夫を大切にしながら変革を恐れず挑戦を続けている。(藤谷茂樹)
 タマノイ酢の源流は豊臣秀吉の時代だった1590年頃、酢の商標として「玉廼井(たまのい)」が用いられるようになった当時にさかのぼります。今の会社は明治40年、5つの蔵が集まってできた「大阪造酢」が発祥で、以来110年にわたって歩み続けてきました。
 歴史の長さはありがたい半面、障壁になることもある。壊すものと守るべきものをはっきりさせることが大切です。旧弊にとらわれていては新しい図面は描けない。一方で、役職では上でも、年少者は年長者を敬うという伝統的な精神などは大事だと感じます。
 私は、タマノイ酢は深海魚のような会社だととらえています。普段は大きな変化がなく、ゆったりとしたところにいる。けれど、餌を取る時には機敏に動かないといけない。歴史の古い会社でも、斬新なことをしないと社員は安住してしまう。ここ一番はしっかりやらないといけないと意識しています。
「経営者が真っ先に我慢」…父の背から学ぶ
 《4歳の頃まで堺で過ごし、父の転勤に伴って東京・杉並へ移った。祖父は4代前、父は先々代のタマノイ酢社長だ》
 父は寡黙で、怒られた記憶はほとんどありませんが、肝心な時に一言重要なアドバイスをくれるタイプでした。母はよくしゃべる人で、対照的な両親でしたが、本当に自由に育ててくれたと思います。
 活発な方で、まとめ役になることが多かったですね。こま回しや鬼ごっこ、縄跳びなど、いろんな遊びを周囲ではやらせました。小学校の運動会では赤組の主将として校長先生から優勝カップをもらったんですが、「校長先生はこんな仕事をしているんですね」なんて言って笑われたこともありました。
 中学では水泳や水球に打ち込み、高校では自転車部。メカニック好きが集まるどちらかといえば地味な部で、みんなより少し後に入ったんですが、いきなり「部室を片付けろ」とか、そろいの黄色いTシャツを着させて「走ろうよ」とか号令をかけた。みんなを外へ引っ張り出し、何十キロもツーリングに出るような部に変えてしまいました。
 父は私が中学生の時に社長になりましたが、当時は経営難だったようで。休みなく働き、3年で立て直しましたが「会社がつらいときは経営者が真っ先に我慢するもんだ」と言っていました。父の後ろ姿を見ながら経営者像を学びました。
3年半修業経て、知識と経験吸収
 《大学卒業後、父の勧めで、ジャムなどのメーカーとして知られるソントン食品工業に就職した》
 父と先方の社長が親しかったことが縁でした。経理や財務、社長室などで仕事をしましたが、思えば外の飯を食う研修期間のようなものだった。このときの経験は、後に商品管理や電算化に取り組む際の大きな参考になりました。
 最初は寮に入ったんですが、寮生15人のうち私以外は全員理系出身だった。彼らの部屋に行っては夜中まで話し込みました。彼らは科学的なことや農学の知識をすごく丁寧に教えてくれた。私は中学のときに哲学や物理の本にはまり、物事の本質を深く考えるのが好きだったから、大いに探求心をくすぐられました。
 若き社会人としての生活を謳歌(おうか)していましたが、3年7カ月でタマノイ酢へ移りました。私は自分の意思で入ったと思っているけど、実は父の術中にはまっていたのかもしれませんね。
 【プロフィル】播野勤(はりの・つとむ) 昭和28年6月、堺市生まれ。51年成蹊大卒。ソントン食品工業を経て、54年にタマノ井酢(現在のタマノイ酢)に入社した。日本生産性本部に出向後、管理部長、常務、専務を歴任し、平成3年に社長就任。若手社員が開発した「はちみつ黒酢ダイエット」をロングセラー商品に育てたほか、ユニークな人事制度なども導入し注目を集めている。