「矢張りどうしても行きたくない」ノーベル賞の湯川博士、日記に残した“栄転”拒否の秘めた心情

関西の議論
1949年11月、米コロンビア大学で撮影に応じた湯川秀樹博士(湯川家提供)

 昭和24(1949)年に日本人で初めてノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹・元京都大教授(1907~81年)。生誕110年を迎えた平成29年末、終戦前後に記した未公表の日記の内容が明らかになった。原爆研究にかり出され、激動の時代を苦悩の中で生き抜いた世界的科学者。終戦後しばらくは沈黙を守っていた博士らしく、日記は淡々と記され内面をうかがい知ることは困難だが、唯一ストレートに心情が表れる記載があった。「(東京へは)どうしても行きたくない」。博士の脳裏に去来したものは何だったのか。(池田祥子)

■戦中の原爆研究

 「F研究」。湯川博士の昭和20年の日記には、この研究に関する記載が4回登場する。F研究とは、海軍の依頼を受けた京都帝国大の物理学者らによる原爆研究の名称だ。

 6月23日付には〈F研究 第一回打合せ会 物理会議室にて〉と記され、同僚らと出席したとの記述がある。

 〈朝七時過家を出て京津電車(現・京阪電鉄京津線)にて琵琶湖ホテルに行く、雨の中を歩く。帰りは月出で 九時帰宅〉

 7月21日付の記載は日常の記録のようだが、この日は大津市で、F研究最後の合同会議が開かれていた。

 湯川博士と戦後親交を持ち、日記を精査した小沼通二(みちじ)慶応大名誉教授は「F研究にかかわったことが初めて先生自身によって示された。ただ書きぶりからは、隠していた訳でもなく、積極的だったとも思えない」と指摘する。

 日記は昭和53(1977)年、京大理学部の戸棚の整理中に風呂敷包みから発見され、博士の没後、遺族が大学に寄贈したノート15冊の一部。「研究室日記(日誌)」と題され、今回、京大基礎物理学研究所の調査により昭和20年1月1日~12月31日分の3冊が公開された。

 博士は9年、ノーベル物理学賞受賞につながる中間子論を発表。終戦後しばらくは沈黙を守り、核兵器の廃絶などを目指した平和運動に携わった。

 小沼氏は東大の学生だった24年11月4日当時を鮮明に覚えている。「日本人がノーベル賞を取ったらしいぞ」「湯川という人らしい」。学内がざわめき立っていた。まだ東京に戦争の傷跡が残っていた時代。名も知らぬ「京大の湯川」という名前だけがたちまち触れ渡った日だった。

■ひっくり返った価値観

 終戦から4年後に世界に認められた湯川博士だったが、20年1月から終戦までの日記には戦況や空襲の記述が目立つ。

 〈B29約130機帝都来襲、被害甚大の模様〉(3月10日)

 〈B29約90機大阪に来襲、雲上より盲爆〉(3月14日)

 3月21日付は〈本日硫黄島将兵玉砕の報あり〉とし、〈国の為 重きつとめを 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ口惜し〉など、硫黄島戦司令官、栗林忠道中将の辞世の句3首を書き写している。

 海外情勢の記載も多く、5月初めには〈一昨日ヒットラー薨去(こうきょ=死去)〉。ポツダム宣言やソ連の対日参戦布告については、それぞれ数十行にわたって内容を写していた。

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 そして、8月15日には、散髪して身なりを整えてから玉音放送を聞き、〈大東亜戦争は遂(つい)に終結〉と記した。

 小沼氏は「湯川先生は、自宅で購読していた朝日新聞を書き写していたようだ。細かく書き写しているものは、何らかの関心があったはず」と語る。

 湯川博士は、昭和18年1月の文章『科学者の使命』で「大東亜戦下、第2回目の新春を迎ふるに当たって、私共の感懐はまた格別である」とし、1億の国民は同じ方向に邁進(まいしん)しつつ「そこには何らの疑惑もあり得ない」と記載。科学者は既存の科学技術の成果をできるだけ早く戦力の増強に活用するべきだと主張している。

 「当時は国がやることが絶対、そういう時代だった。だから湯川先生も国のためと思っていただろう」。小沼氏はこう語った上で、「終戦で、日本の価値観がひっくり返った。戦後の湯川秀樹もがらっと変わったが、変わらない信念もあった」

 この信念のひとつが、学問に対する姿勢のようだ。日記からは、戦中も終戦後の慌ただしい中でも大学に足を運び、熱心に講義に取り組む様子が伝わる。また、科学において基礎分野の発展がなければ、応用する科学技術は枯渇するという持論も貫き通した。

■「京の山」への思い

 日記は淡々と日々の出来事が記されており、そのタッチも終戦前後で変化は見られない。湯川博士の感情もあまり読み取れない。

 しかし、昭和20年6月28日に東京に出張した際の記述はちょっと様子が異なる。空襲を受けた〈満月の焼野原を〉歩き、10月に東京帝国大に転任することに思いを巡らせ、〈矢張りどうしても行きたくない〉と、京都を離れることについて揺れ動く心情をしたためている。結局、東京帝大への転任の件は〈辞退の手紙書く〉(7月2日)と記された。

 湯川博士が昭和21年に発表した随筆『京の山』には、幼いころから暮らした京都の街への愛着がほとばしる。

 「新居の二階に上って、東から北、北から西へと起伏する山並を眺めた時、ああ京都へ帰ってきてよかったとしみじみ感じた」。昭和18年10月に兵庫県西宮市から転居し、現在の京都市左京区にあった新居から眺めた風景をこう記す。

 博士は、京都の街全体を囲む山々はなくてはならないもので、特に身近に感じるのは比叡山だとし、その姿を「孤高」と表現。「いつまでも変わることのない友達だ」と愛着を寄せる。

 さらに、日記にも記される東京帝大への転任についても触れている。学閥という狭い縄張りを切り捨てて招いてくれる東大の教授らへの感謝をつづった上で、「東京へ出て思う存分働き、この信頼に酬いたい。しかし、この気持が強くなればなるほど、それに比例して京都を離れたくないという気持ちも強まってくる」と記載しているのだ。

 戦火を逃れた京都から、焼け野原の東京で復興に努力する先輩らの労苦に対し、心の中で「すまない、すまない」と繰り返したと胸の内を明かした。

 そして、「美しい自然の恵みの中に生活し得る私は、日本の再建に対して-他の大都会にいる科学者に比して幾層倍も大きな-責任を感ずる」としている。

 小沼氏は「湯川先生は、東大の講義に出かけてみて東大と京大の物理の取り組みの違いに気が付いた。東大では伝統的分野が主流で、新しく発展した分野が重視されていないと感じたのではないか」と話した。

 博士は、『京の山』で「私の父も母も祖父母も同じ山々を見つつ、生きかつ死んでいった」と記載した。日本を代表する世界的科学者のよりどころは、京都だったのだろう。

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