呉軍港空襲の生還者(下) 終わらなかった戦争、戦地の兵士を日本へ届けよ! 「この世界の片隅に」で描かれた地獄絵図とは

銀幕裏の声
“島”のように擬装された空母「鳳翔」(右上)。山本さんは通信兵として乗艦していた

▼(上)空母「天城」も横倒し、空一面が炎と煙…から続く

 第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年7月、広島県呉市の呉軍港は米軍機による猛攻を受ける。停泊中の戦艦や空母などが致命的な被害を被り、呉軍港は日本海軍の母校としての機能を完全に失った。通信兵として空母「鳳翔(ほうしょう)」に乗艦していた山本重光さんは目の前で展開する光景を「地獄絵図そのものだった」と振り返る。鳳翔は奇跡的に軽微な損傷で済み、山本さんは一命を取り留めた。その理由について山本さんはしみじみとこう語った。「江田島の島民が島を挙げて迷彩シートなどで擬装してくれていたおかげです」と。山本さんは「この日、目撃した光景を忘れないために、後生へ伝えるために…」と92歳になって初めて取材に応じ、証言してくれた。(戸津井康之)

奇跡的な生還

 戦艦「榛名」「伊勢」「日向」、空母「天城」など呉軍港に停泊中の軍艦が次々と大破していくなか、山本さんの乗艦する空母「鳳翔」は軽微な損傷だけで空爆から逃れている。

 それはいったいなぜか?

 「米軍の大空襲を想定し、その年の6月頃から江田島の島民たちが島を挙げて、鳳翔を守るために擬装してくれていたのです」と山本さんは説明する。

 擬装とは、艦橋や飛行甲板などを迷彩シートや草木で覆い、艦全体を島のように見せかけること。他にも擬装していた軍艦はあったが、上空から米軍機に見破られていたのだ。

 「鳳翔は全長約170メートルもあったんですよ。そんな巨大な空母を覆い隠すのですから、どれだけ多くの住民たちが擬装するために一生懸命、尽くしてくれたか…」。山本さんは感謝の思いを込めてこう振り返った。

 呉軍港で見た空襲を語る際、山本さんは一枚の水彩画を広げて見せてくれた。

 空を覆った無数の米軍機の機影。海に浮かぶ数十隻の日本の軍艦が空爆で火を噴き、その上空一面を煙が覆う…。

 それは、山本さんが「この日見た空襲を忘れないために。後生へ語り伝えるために…」と自ら描いた水彩画だった。

焼かれた軍艦旗

 8月15日、終戦。

 玉音放送を聞いた鳳翔の乗員たちの姿を見て山本さんは絶句した。

 「涙に暮れる者、惚けたように艦内をただふらつきながら歩く者…。それは生きる気力を失った者たちの姿でした」

 終戦から5日後の20日。艦長による「総員飛行看板へ集合せよ」という艦内放送を聞き、約800人の鳳翔の乗員が甲板に整列した。

 午後5時。掲揚されていた軍艦旗がラッパの音とともに降ろされた。白い手袋をはめた艦長がその旗を手に取り火をつけた。軍艦旗が焼かれる光景を乗員全員が敬礼をして見守ったという。

 「艦長が旗に火をつけた瞬間。私の周囲から一斉に押し殺したようなうめき声があがり、その声は次第に号泣に変わっていきました…。私はこの声を一生忘れることはないでしょう」

終わらなかった“戦争” 

 8月15日、日本は終戦の日を迎えるが、山本さんにとっての“戦争”は実はまだ終わってはいなかった。

 呉軍港空襲で日本海軍は大半の主力艦を失ったが、軽微な損傷で済んだ鳳翔には「復員輸送」という新たな任務が与えられたのだ。

 その任務とは、戦後、海外の戦地などに残された兵士や民間人を軍艦で迎えに行き、艦に乗せて日本へ連れて帰ること。

 「乗員が集められ、長男は実家へ帰ってよし、次男三男は艦に残って復員輸送の業務に就けという命令が下されたのです。私は次男だったので、そのまま乗員として残りました」

 米軍は呉軍港空襲の際、無数の機雷を呉近海に投下していた。

 「日本海軍には機雷を撤去する掃海艇もなく、呉近海は機雷だらけでした。少しでも艦が触れたら大爆発を起こし、沈没してしまう。私は戦争は生き抜いたが、今回はもうだめかなと思いました」と山本さんは打ち明ける。

南洋の島へ!

 山本さんの第1回の出航地はマーシャル諸島のジャルート環礁。南洋の激戦地の一つだ。

 元々、空母だった鳳翔は復員輸送のために艦載機の格納庫を改造し、5段ベッドが特設されていた。1人でも多くの日本人を救出するためだ。

 そこは食料のほとんどない孤島だったという。山本さんたちが約9日間かけて到着したとき、ヤシの葉さえ食べ尽くされた島で、約1500人の日本兵が生存していた。 

 「みんな顔色は土色で、腹だけがふくらんでいました。栄養失調です。日本へ帰る途中、何人もの兵士が船中で亡くなりました。船中で亡くなった遺体は水葬するのです。みんなで敬礼して…。せっかく日本へ帰ることができるのに。むごいことでした」

少年兵の最上のお礼

 その後も山本さんの復員輸送の活動は繰り返された。ニューギニアのブーゲンビル島。シンガポールでは民間人約3千人を乗せた。

 日本から船で迎えに来た山本さんたち乗員を見て、多くの日本兵や民間の人たちは涙を流しながら、しがみついてきたという。

 マーシャル諸島のウォッジェ環礁に到着したときの光景も山本さんの脳裏から離れることはなかった。

 「まだ年の若い兵士たちがやせこけて老兵にしか見えなかった。みんな打ちひしがれていました」

 祖国を守るために、この“絶望の島”で必死で戦い生き抜いてきた彼らに、山本さんは日本が戦争に負けた事実を伝えることができなかったという。

 すると兵士の中から1人の少年兵が立ち上がり、ふんどし姿でマストを登り始めた。「もう力も残されていないはずなのに必死でよじ登っていくのです」。そして海面から30メートルほどの高さまで登ると、少年はその両手を広げ、真っ逆さまに海に向かって飛び込んだという。

 「実に美しく、見事な飛び込みでした。この少年兵は、日本からはるか離れた島へ自分たちを迎えに来てくれた私たち乗員に対し、最上のお礼で示したかったのだと知りました」

1年後の「終戦」

 山本さんは復員輸送の任務に計十数回参加している。航海した総距離は地球何周分もの長さに及ぶだろう。

 21年11月、山本さんの長い任務はようやく解かれ、帰宅を許された。20年8月15日の終戦から1年以上も後になって初めて山本さんは故郷・三重へ帰還したのだ。

 戦後、海外の戦地で戦った日本兵や海外で暮らしていた民間の日本人の中から、「自分たちは祖国に見捨てられた」という話をよく聞く。確かにそういう人たちは少なくないかもしれない。しかし、わずかに残された軍艦を修復し、山本さんのように戦後、一度も実家に帰ることなく、海外に取り残された日本人を日本へ連れ帰るための復員輸送に従事していた軍人たちがいたことを私たちは決して忘れてはならない。   =この項おわり

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